承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

共同体 束縛と自由のダイナミズム

日本を含め国家の多くは、国をひとつの共同体と見立てて主権者は国民であるとする国民国家モデルを採用しています。
その対極にあるのは、国は誰かの所有物であり、所有者すなわち主権者が支配下にあるものを好きなように統治できるという専制国家モデルです。

人を支配しようとする者は徒党を組むことを好みます。やがてボスを中心とするグループが結成され、他のグループと勢力争いをしつつ成長します。
支配の地盤が確立し、大規模に組織化された集団がマフィアです。(注1)

マフィアは「ここからここまでは自分の縄張りだ」と所有の感覚を持ち、その範囲内の住民を支配します。縄張り内部の争いを仲裁したり、外敵から保護する一方で、みかじめ料を徴収したり、気に入らない人間を制裁します。
マフィアと言う言葉は非合法という響きを含むので、豪族と言い換えても良いでしょう。
更に権威を加えて支配の正当性を強調すれば、王族と呼ぶことになります。

専制は支配ー服従の関係であるため、その統治の良し悪しはトップに立つ者とその取り巻き次第です。
時に莫大な貢ぎ物(税)を要求したり、無理を押し付ける支配者に対して、商工業者を中心に都市の住民が集団で交渉し支配者に干渉されない領域を少しずつ獲得していったのが中世の自治都市です。

共同体とは英語でcommunityであり、自治都市はフランス語でcommuneです。どちらもラテン語で共通したものを意味するcommunisを語源とした言葉です。

国をひとつの共同体と見立てて主権者は国民であるとする国民国家モデルは、自治都市の発展した形だと言えます。領域を拡大したのみならず、共同体の構成員が身分を越えてすべての住民に拡大されました。何よりも大きな変化は、主権が時の権力者から国民に完全に移行したことです。(注2)

しかしこのモデルの下でも、他者を支配して思い通りにしたいという欲望は途絶えることはありません。
以前このブログで次のように述べました。

このような他者をコントロールしたいという力と、解放されたいという力のせめぎ合いの中で、後者が自由になるための手段として取り入れるのが新しいシステムです。(注) そのシステムは一旦は支配のリセットをもたらします。しかしやがて時間の経過と共にそのシステムもコントロールの手段として組み込まれてしまいます。

BIその2 束縛と自由のダイナミズム - 承認欲求の考察

国民主権の国民国家モデルには、国家権力が一部の者のために恣意的に用いられることを防ぐしくみが備わっています。
日本国憲法も例外ではありません。

例えば個人の尊厳や法の下の平等は、国家権力が国民を価値のある者とない者に振り分けることを防止します。

内心の自由、信教の自由などの自由権は、国家権力が個人の領域に干渉することを抑制します。
とりわけ表現の自由は、自治のために国民が事実を認識しようとすること、考えを表明することを妨害されないようにするために不可欠です。

罪刑法定主義は、いかなる行為が犯罪かをあらかじめ法令で規定しなければならないとすることにより、時の権力者が目障りな者を恣意的に処罰することを防止するものです。(注3)

三権分立や立憲主義は、国家権力が濫用されやすいものであることを前提にして、それを未然に防ぐための統治システムです。

これらのしくみが骨抜きにされる時には、国家というシステムは実質的に共同体モデルから逸脱します。


(注1)ここではマフィアという言葉を大規模で組織化されたギャングという意味で使用しています。

(注2)大日本帝国憲法の下では、主権は天皇にあり、天皇・皇公族以外の国民は臣民として天皇の支配の対象でした。
もっとも先進国の仲間入りをするためにも、民衆の不満を収めるためにも、明らさまな専制ではなく啓蒙君主型の国民国家モデルが採用されました。

(注3)制定間近と思われる共謀罪は、罪刑法定主義を実質的に骨抜きする危険性があります。
何が犯罪の準備行為に該当するのか明確ではなく、捜査機関の判断任せとなることから、いくらでも恣意的な逮捕が可能になるためです。
そうなればマスコミのみならず一般国民から官僚、議員、裁判官に至るまで、時の権力者に不都合な言動は自制されるようになり、表面は民主制でも事実上は独裁制と変わりないものとなる恐れがあります。