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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

他者を受容するということ

他者と向き合う

前回は共感を求めることの問題点について考察しました。共感を求める人の多くは、共感されることは受容されることだと感じています。そこで今回は受容について考察します。

受容とは、受け入れることです。それは二つに分かれます。
一つは行為の受容、もう一つは人の受容です。後者は「あなたはOKだ」ということです。
この二つを混同する人は少なくありません。

このブログの承認欲求の定義は、自分はOKだと信じたいことです。承認欲求が強い時には、自分は駄目な人間かもしれないという思いを抑圧しようとしています。
そのために特定の行為を注意されても、それを人格の否定として受け取る傾向があります。

例えば「もっと急いで」と言われた時に、「愚図なお前は駄目な奴だ」と言われているかのように捉えてしまいます。そこでそれを否定しようと、急ぐかわりに「どうしてもっと早くに依頼してくれなかったんですか」と反撃したり、「今日は体調が優れないんです」と言い訳することに力を注ぎます。

逆に人格を肯定されれば行為も肯定されると誤解するケースもよく見られます。
例えば自分が遅刻しておきながら「このくらいで怒るなんて、君の愛はその程度のものだったのか」と言う人は「自分を受け入れてくれているならば何をしても許してくれるはずだ」という甘えがあります。

「仲間なんだから、その程度は大目に見てやれ」という言葉を耳にしたことがある人は少なくないでしょう。これには、「本人は反省しているのだから許せ」という意味合いの場合と、「問題行動を指摘するな」という意味合いの場合があります。
後者は見て見ぬふりをしろということであり、仲間として受容したからにはその人のすべてを丸呑みしろと言うのに等しいでしょう。更には犯罪の隠蔽工作に加担しろという考えにも繋がるものです。

生きる価値がない人がいるという思考は、殺してもよい人がいるという思考と同根です。
そのような考え方が広がっている社会が、家族をはじめ血縁、地縁、国家という共同体を重視するのは、決して偶然ではありません。

共同体あっての個人であり共同体の役に立つことが善であるという価値観を持てば、共同体の役に立たない人間は不要だという結論に導かれやすくなります。

しかも共同体の中で身動きがとれなければ、個人が人間関係の距離を調節することができません。そうなると不都合を解決する手段は、問題が存在しない振りをするか、問題を作る存在を疎外するか、徹底的に支配することで問題分子を生み出さないかに限定されます。

誰もが生きる価値があるという思考は、生きていてOKという意味であり、何をしてもOKで笑って受容するということではありません。
行為の受容と人の受容は別であり、人の受容も距離を調節することを前提とします。
生きていてOKというのは、自分がその人の面倒を引き受けるということではありません。

例えば親の介護に疲れて殺人を犯すケースや、行為に及ばなくとも「死ねばいいのに」と願うケースは珍しくありません。相手を抹消したいという思いは、心理的、物理的な距離を置くことができない状況で生じます。
学校や職場のいじめも、仲良く付き合わなければいけないというプレッシャーがある環境で生じます。

共感をベースにした一体感を持つか抹消するかの二者択一ではなく、時と場合に応じたグラデーションを持つ人間関係の方が、自分自身の人間性にダメ出しされて生存が脅かされる不安は軽減されます。
それは承認欲求が生じにくい環境に他なりません。

一緒に暮らせば喧嘩が絶えないけれど、時々会って話をする友人としてならばうまく行くことがあります。口臭が酷くて耐え難い人でも、ネット上の付き合いなら問題ありません。すぐに欠点を指摘して攻撃する不愉快な人でも、年賀状のやり取りのみならば気になりません。
関係に幅をもたせることが可能であれば、相手の人間性を否定する必要はないのです。