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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

共感を求めることの問題点

前回はなぜ人を殺してはいけないかについて考察しました。この種のテーマはしばしば共感の押し付けがなされます。しかしそれで納得できるような人であれば、はじめからこのような問いかけはしなかったでしょう。

例えば「世界でたったひとつの欠けがえのない命なのだから、それを奪ってはいけない」と説得しても、自分が死んでも誰も悲しまないだろうと感じる人には響きません。

人間関係に恵まれていても、人間だけが欠けがえのない命なのか、動物や昆虫はそうでないのかという視点からこの問いが生じる場合もあります。「なぜゴキブリは殺していいのか」という問いとセットの「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問です。「欠けがえのない命」という説明はこの答えになり得ません。

共感とは生じるものであり、努力して得るものではありません。共感が起こらない人にそれを求め続けることは、「これに共感できないお前はだめな奴だ」という人格攻撃となる可能性を含んでいます。

共感と理解は異なるものです。
例えば映画の主人公が泣いている場面で、自分も悲しい気分になることと「そんな目に遭えば泣きたくもなるだろうなあ」と納得することは、同じではありません。

立場や感受性が異なる人の間では、共感は理解よりもずっとハードルの高いものです。
にもかかわらず、共感を強制しようとする人が存在します。「愛国心を持て」とか「かわいそうな人達なんのだから同情しろ」といった、相手はこう感じるべきだという押し付けです。

共感を押し付ける人の中には、共感は理解よりも良いものだという思い込みが存在することがあります。
例えばこのブログを「頭でっかちでハートがない」と批判されることがあります。その根底には共感はハートであり良いものだ、理屈は頭であり悪いものだという考えがあります。

それは「みんなでハグすれば憎しみは消える」と言うのと似たようなものです。共感は勇気を出して相手に近づけば容易であり、共感が起これば立場を越えて理解できるという楽観的な考えと言えるでしょう。

問題は共感を簡単なものだと考えるために、それができないのではなく単にやる気がないのだと受け止めやすいことです。それは共感しない人は自分を拒否しているのだという、極端な単純化に繋がります。
その結果共感しない相手に対して不寛容になり、攻撃したり排除したりします。

また差異を過小視することにより、自分達は同じ感情を共有していると誤解し、相手を理解したつもりになるという問題を生じることも少なくありません。
急に親しげに距離を詰めてきて、相手が不気味に感じて後退すれば「あの人は閉じている」と非難することもあります。

理解したつもりになりやすいことは、言葉を尽くして説明することを軽視することにも繋がります。
その結果、何となく違和感を抱いてもそれが何であるか検証しにくくなるために、関係に問題が生じても発見が遅れることもあります。
集団において、言葉で説明すると矛盾が露見する危険があるからこそ、はじめから共感を強調するケースも少なくないでしょう。

更に共感を偽装することの問題も存在します。
共感とは同じ感情を分かち合っているかのように見えますが、実はある出来事を通してそれぞれが感じているものが、表面的に似ているということに過ぎません。従って、ふりをすることも可能です。
共感を重視するほど、それを偽装して相手をコントロールする人に対して無防備になります。

ダイバーシティという言葉を近年よく耳にするようになりました。多様性と訳せば自分の選択肢が増えるかのようなイメージを抱く人も多いため、敢えて相違と訳します。
それは同じ感覚ではない人、話が合わない人、立場が異なる人といかに共に生きていくかという課題であり、共感を強制することとは対極にあります。「マイノリティの気持ちも考えよう」と呼びかけたり、分かったふりをすることではありません。