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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

なぜ人を殺してはいけないのか

時事

人を殺してもよいという考えには、二種類あります。

一つは誰もが好き勝手に殺してよい、殺されたくなければ防御しろという弱肉強食的な世界観を肯定するものです。
思想としてこのような世界を求める人は稀でしょう。殺すことに快楽を感じる人や自棄になって社会に復讐したい人かもしれません。

世界中でテロ行為が頻繁に生じている近年、それが社会にどのような影響をもたらすかを想像することは難しくありません。街角に爆弾が仕掛けてあったり、電車の中で刺されたり、レストランの食事に毒が仕込まれているような危険があれば、安心して生活することが不可能になります。観光をはじめとした第三次産業は大きな打撃を受け、経済活動は縮小します。

そのような社会では極端に治安の悪い国の富裕層のように、多くの人は自分が殺されないためには高い壁に圏まれ警備が行き届いた安心できる場所を求めると考えられます。それは個々が殺してはいけない社会に避難するということです。

それならばはじめから人を殺してはいけないという法規範が存在し、警察や裁判所のようなそれを強制するシステムが社会に機能する方が、効率が良いことは明らかです。
従ってこの考え方が社会で大きく支持されることはほぼ有り得ないと考えてよいでしょう。

問題は、ふたつめの人を殺してもよいという考えです。それは社会の害になる人、無用な人は殺した方がよいという世界観です。ナチス政権の優生思想がその典型です。相模原の障害者大量殺人は障害者はいない方が社会のためだという思想の下に実行された可能性があります。

この思想が誤っていることは、誰が殺してよいカテゴリーを決定するのかという点を考えれば自明です。
ある人は障害者を、別の人は老人を、また別の人は社会にうまく適応できない人を、更に別の人は悪人を、殺しても良い対象と考えるでしょう。そうなると自由な殺人を肯定することと同じ結果になります。

それでは法律で殺しても良いカテゴリーを決めておけば問題ないのでしょうか。
そう考える人は、社会の合意の正しさに関してあまりに楽観的と言わざるを得ません。

このブログの承認欲求の定義は、自分はOKだと信じたいことです。多くの人々が自分は大丈夫だと信じるために他者を見下し攻撃します。承認欲求について学べば「自分はきちんとした人間だけどあいつは駄目な奴だ、死ねばいいのに」という短絡な考えを人はいかに持ちやすいかに気付くでしょう。

また「正しい自分達と悪いあいつら」という二項対立の単純な価値観を作り上げることで大衆の感情を喚起して社会の合意を作り上げる手法は、既に知られています。大勢が賛成したのだから正しい結論であるとは限りません。それがマイノリティの処遇に関するものであれば尚更です。

人を殺してはいけないという規範が軽視されると、少しずつ殺して良い対象が増える危険があります。
承認欲求が強い人が権力を持てば、世論誘導により自分に反対する者を悪にカテゴライズします。例えばポルポト政権や文化大革命では、知識階級が粛清の対象となりました。

ひとつめの自由な殺人を否定する人でも、対象をあるカテゴリーに限定した殺人は肯定することが少なくありません。こう考える人のほとんどは、自分はそこに含まれないと安心しています。

しかし単にそう信じたいだけで、本当に自分が含まれる可能性はないのかと考察したことのない故の根拠のない自信だと言えるでしょう。なぜならある日突然脳に障害が生じたり、交通事故で半身不随になるという可能性は誰もが否定できないものだからです。

人を殺してはいけない理由として、ひとりひとりの人間はかけがえのないものだからという言説を耳にしたことがある人は多いでしょう。
しかし逆に、ひとりひとりの立場が交換可能であるからこそ人を殺してはいけないと言えます。「明日は我が身」です。