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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

二極化について

信じるということ

前回インターネットに関して二極化しているように見えると書きました。この二極とは「信じたい人」と「知りたい人」です。前回衆愚化という言葉を使用したことは、知性による二極化と誤解を招く表現だったかもしれません。信じたい人は信じたいことを言ってくれる人に操作されやすいという意味で使用しました。

社会は現在大きな転換期にさしかかっているように見えます。これは自然災害に関しても、政治や経済に関しても、産業技術に関しても、人々の心理状況に関しても言えることです。
変化は否応なしに訪れます。地震は嫌いだと言っても避けることはできません。
 
しかし変化を受け入れることができず、これまで通りだと信じたい人々が存在します。企業でも政府でも、信じたい人がトップであれば問題を先送りして変化に適応できません。
また変化を手放しで歓迎して、バラ色の未来が来ると信じたい人々も存在します。

「信じたい」に関しては承認欲求のキーワードの一つとしてこれまで何度もこのブログで言及してきました。信じたい人は疑念が生じることを嫌います。

これはインテリかどうかとは無関係です。インテリは都合の良い設定で物語を作ってそれを真実であるかのように提示することが巧みです。
そうでない人は理屈よりも感情に訴えかけたり、多数とみせかけて強引に押し切ったりします。
しかしどちらも自分の信じたいことを他者も信じるよう誘導する点では一致します。

信じたい人か否かは政治的な指向や社会経験とも関係ありません。
「こちらは善で相手は悪だ、だから相手の話に真剣に耳を傾ける必要はない」という単純化は左右に共通して見られる傾向です。
また信じたい人は若者にも高齢者にも等しく存在します。

信じたい人々が会話に混じると面倒です。地震を例に考えてみましょう。
多くの場合問題は過小視されます。「日本は昔から地震の多い国でそれでも今まで繁栄してきたのだから大した問題ではない」という類のコメントです。
あるいは逆に過剰な反応をすることもあります。「阿蘇山が大爆発すれば日本終了だから考えても無駄」という類です。前者とは正反対のようですが、変化にいかに対応すべきかという議論を無力化しようとする点で共通しています。
他に問題をすり替える場合もあります。不謹慎狩りやタレントの寄付を巡る批判はこのケースです。
更に「これは神々が目を覚まし、みろくの世が近づいた証です」という類の、変化を良いものだと信じようとする反応もあります。

信じたい人をシャットダウンすれば問題は解決するのでしょうか。
信じたい人か知りたい人か選り分けることは容易ではありません。
大多数の信じたい人は信じたいのだという自覚はありません。本人はある程度は知っているがもっと知りたいのだと思ってるかもしれません。
他方で信じたくて会話に参加するうちに段々と知ることにシフトする場合も少なくありません。

自覚という点から考えるならば、自分は間違っているかもしれないという自覚があれば信じたい人ではないと仮定することは可能です。しかしそのような自覚のある人ほど発言を控える傾向があります。
「誰も正解を知らない、だからこそ現在の自分の考えを述べて良いのだ」ということが言論の場での共通認識となることが重要です。

信じたい人が異なる見解を封じないようにするには、なぜこの人はこのタイミングでこれを言うのかという点に注意する必要があります。
信じたい人はしばしば同じ切り口から語ります。言論のコピー&ペーストです。これは権威を持ち出し虎の威を借りる場合もあれば、自分が多数者側だと押しきるために行われる場合もあります。

誰もが知ろうとする必要はありません。多くのコピペのゴミから必要な情報を抜き出すことも、自分の頭で考えることも、面倒だし無意味だと感じる人がいるのは当然です。
二極の間には大多数の「なぜ青筋立てて語っているのか分からない。それで儲かるの?それとも暇なの?」と感じる人々が存在します。その人々には信じたい人も知りたい人も同じように映るかもしれません。

知りたい人も信じたい人も変化を敏感に察知してしまった人です。
変化にどう対応したらいいのかじたばたするか、「大したことではない」あるいは「良いことだから心配いらない」と言い聞かせようとするかの違いに過ぎません。