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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

努力することは善か

努力することは善であると考える人は少なくありません。努力しなかった人に不幸が訪れると他者はしばしば「自己責任だ!」と非難し、幸運が訪れると今度は「ずるい!」と嫉妬します。

そもそも努力とは何でしょうか。努という漢字は奴と力の組み合わせで、奴は奴隷や奉公人を意味します。ここから努力とは自発的に力を入れるのではなく、仕方なくエネルギーを注ぐことだと考えることができます。
例えば「努力して漫画を読んだ」と聞けば、その漫画は読み手にとっては全く面白くないけれど読まねばならない事情があったと想像させます。

とすれば努力を比較したければ、注入したエネルギーx苦痛の大きさを知る必要があります。
苦痛の大きさはエネルギーが回るのを弱める摩擦のような働きをすることは、想像に難くありません。苦痛が大きいとエネルギーの効率が悪くなる一方、熱中して取り組むと効率は上がります。
従って良い結果を出した人は努力したのだと一律に考えることは誤りです。

もっとも努力は避けるべきだと考えることは早計です。
助走をつける意味での努力は非常に有益です。はじめは気が進まなくても、やっているうちに熱中することは誰しも経験があるでしょう。
例えば「今年は面倒だから大掃除は止めておこう」と思っていたのにせめて玄関周りだけでもと重い腰を上げ、作業に取りかかるうちにだんだんと気持ちが乗って結局やり切ってしまうような場合です。

最初から最後までひたすら苦痛であっても、努力が必要な時もあります。例えばリハビリは辛いものですが、身体機能を取り戻すためには必要です。目的のために努力するという決断は、苦痛を乗り超える励みになります。

努力することは絶対的な善であると考えてしまうと、以下のような問題が生じる可能性があります。

1.不効率化
苦痛を耐え忍ぶことに意味があると考えると、苦痛を減らして効率を上げる方法を模索することに対して否定的になります。例えば漫画学習教材で子供が楽しみながら学ぶことは邪道だと考えるようなケースです。長時間の残業が日常となってしまうのも、企業が作業効率よりも社員の忍耐力を重視していることが一因です。

2.目的の軽視
努力は目的達成のためだと考える代わりに努力自体に重心を置けば、本来の目的は軽視されるようになります。例えばある少年が人一倍努力をしていることを理由に、才能がある子を差し置いてスポーツチームのレギュラーに抜擢されるようなことが生じます。

3.承認欲求の介入
本来の目的が軽視されることに比例して、別の目的が介入します。「大きな努力をしている自分は偉い」と感じることで、自分はOKであると信じようとする試みです。
例えば素手素足で学校のトイレ掃除をすることに、多くの人は抵抗を感じるでしょう。このような人が嫌がることを努力で乗り越えれば「自分の殻を破ったすごい自分」と感じることができ承認欲求を満たします。(注)

4.奴隷根性の養成
承認欲求を満たした状態は長く持続しません。その後も人に褒めてもらったり自分ですごいと感じるために、嫌なことを我慢しなければならないと感じるようになる可能性があります。
奴隷根性とは「よい奴隷になりなさい、そうすればご主人様がお前を役立つと認めてくれるだろう。ご主人様に嫌われては生きながらえることはできないよ」というメッセージの内在化です。
承認欲求が介在することによって、努力すればするほど奴隷根性の刷り込みが生じる危険が生じます。そうなると苦労しなければ自分はOKではないかのように思い込み、楽に生きることに罪悪感を感じるようになるかもしれません。

5.グル商人の跋扈
素直な人には奴隷根性を刷り込まれる危険が生じる一方で、奴隷ではなく支配する方に回ろうとする人も出現します。
彼らはキーパーソンに接近したり有能な人を貶めたりしながら、人脈作りも努力のうちだとしばしば強弁します。技術やアイデアを磨くことにはエネルギーを注がないために、見かけ倒しだったり他人の作品を剽窃するようなことも少なくありません。そのような人が業界の高い地位を占めるようになると、業界全体の質が低下します。

グル商人に関してはこちらをご覧ください。
コミュニケーション能力と四つの方向性 - 承認欲求の考察
ラーメン屋のたとえ - 承認欲求の考察


(注)
やりたい大人がすることは本人の自由ですが、子供達にやらせる学校も存在します。トイレを綺麗にするためには素手素足である必要はなく、苦痛なことを敢えてやらせるところに意味を見出していると考えて差し支えないでしょう。
学校は集団行動が重視されるために、自分だけ拒否することは我儘であると判断されやすい環境です。そのため汚いという実感を無視して、素晴らしい挑戦だと信じようとする方向に誘導される可能性が高いでしょう。

こちらに写真が多数あります。
素手で男子トイレ掃除をやらされる女子小中学生 - NAVER まとめ

こちらに運動の政治的な背景などが詳しく考察されています。
「素手で集団トイレ掃除運動」の政治性について - 荻上式BLOG

この指摘は承認欲求とカルトについて考える上で重要と考えます。

  ロジックとして若干気になるのは、「不浄をきれいにしてあげる」というロジックを、「文化的価値」に対する評価とか、人間関係に適応すると、容易に「あなたもこちら側にいれてあげる」あるいは「完全ではない人たちを、完全にしてあげる」的な、「過剰包摂」的なモデルが透けてみえて、いやだな。
「素手で集団トイレ掃除運動」の政治性について - 荻上式BLOG