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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

自己責任について その1

自由と責任

前回は「私」という箱を一時的に解体する手法として瞑想を紹介しました。
箱の解体というのは誤解を招きやすい表現だったかもしれません。これは自分が消えて無くなるという意味ではなく、自分という枠を忘却するという意味です。お前はだめな人間だという呪いの強い社会では、どう振る舞うべきか気になるために自分に関心が集中しがちです。外見を繕うことに力を注いで、自分はどう感じるのかは軽視されることは少なくありません。

私という箱が存在していると思えば、箱の中は自分のコントロールが及ぶ領域であるかのように誤解しがちです。そのために思い通りにできないと自分を責めたり、恥かしいと感じたりします。しかし実際は私は自分自身の支配者ではありません。これは瞑想すれば誰でもすぐに実感できることです。

それは庭仕事に似ています。人は種を蒔いたり、水を遣ったりして介入しますが、植物の成長には日光や気温など他のものにも大きく影響されます。自分はプレイヤーの一人に過ぎないと気付けば気が楽です。自分だけだと思うと、よい結果を出さなければバカにされると心配して過剰な介入をしてしまうかもしれません。

さて、自己責任という言葉をよく耳にします。例えば忘れ物をした子供が「お母さんが確認してくれなかったからだ」と文句を言うような他者への責任転嫁が存在する状況で使われるのであれば、多くの人は異論がないでしょう。
しかし、誘拐されたのは危険な土地に滞在したからだ、痴漢に遭ったのは派手な服装をしていたからだ、貧困なのは努力が足りなかったからだと、責任転嫁と無関係の文脈で安易に使われることが少なくありません。

この拡大解釈の背後には、きちんとコントロールしなかった人が悪いという主張があります。これは自分の人生は自分で支配できるという錯覚に基づいています。

自分の人生は自分で支配できるという錯覚は、「私」という箱は自分だけのものであるという誤解に基づいています。
まるで自分の庭は自分しか手を加えないかのようです。実際は太陽や雨風や虫も影響を与えます。「私」も絶えず外から多くの刺激を受け、影響されます。

また介入と支配の混同もあります。
海外に行かなければ誘拐されなかったことが事実でも、旅行という行為は他の要因と共に因果関係を作っているのであり、責任の所在とは別問題です。食中毒を出したのはレストランの責任であり、食べに来た客の責任にすることはできないのと同じことです。

時には子供の貧困問題を語る場でも自己責任と言い、子供は親を選べないではないかと反論されると親の因果は子に報うのは当然だと言う人すら存在します。
ここにも介入と支配の混同があります。生まれなければ貧困にもならなかったと言うのは責任と無関係です。
また親子を一つの箱に纏めてしまうのは、過去に何度も言及した箱の中の箱という捉え方です。

実はこの箱の中の箱という捉え方こそ、責任転嫁をされているわけでもないのに「自己責任だろ!」と言いたくなる原因のひとつです。
箱の中の箱モデルとは、みんなという大箱の中に小さな箱が並んでいるというイメージでの社会の捉え方です。自己責任という言葉を使用するのは、その責任は自分の箱とは異なる箱にあるから自分には関係がないと主張するためです。

承認欲求の強い人は自分に関心が集中します。
例えば痴漢の問題であれば、自分は男という箱に属しているから自分も悪いと非難されているような被害妄想が生じます。そこで自分は関係ないと思いたいがために、痴漢に遭った人の責任にしておきたいという心理が働きます。
同様に貧困の問題にしても、社会が悪いとなるとその社会に属する自分も非難されるような気になるため、本人の責任にしておきたいと思います。
これは意識的な思考ではなく、箱の中の箱という捉え方と承認欲求に基づく無意識の反応です。

すぐ自己責任だと言いたくなる原因は、他にもあります。次回に続きます。