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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

箱の解体手法としての瞑想

前回個々の状況や感覚を重視することが、キャラクターを演じるストレスから解放する方法であると述べました。以前承認欲求がない状態について考察したときも、同様のことを述べました。
一時的に箱を解体して個々の感覚に立ち戻ることを可能にする手法として、今回は瞑想について述べます。

まずひとつの具体的な方法を挙げましょう。
生じる感覚や思考をただひたすら観察します。プロレスやサッカーの実況中継のように言葉にしますが、声に出す必要はありません。自由連想による妄想に迷わないように、錨として注意を置く点をまず決めておきます。

例を挙げてみましょう。呼吸による腹部の膨らみと縮みの動きを錨にします。
「膨らんでいる」「動きが止まった」「縮んでいる」「止まった」「膨らんでいる」「顔が痒い」「車の音がする」「縮んでいる」「痒い」「掻こうかなと思った」「膨らんでいる」「止まった」「縮んでいる」「今何時だろうと思った」「お風呂に入らなきゃ」「また痒い」「空気が乾燥しているからかも」「早くお風呂に入ろう」「明日も朝早いし」「今考え事してたなあと思った」「膨らんでいる」「止まった」「縮んでいる」「止まった」「膨らんでいる」…
このようにともかく感じるままを実況中継します。

刺激が少ない方がやりやすいので、慣れないうちは一人になれる静かな場所で目を閉じて行う方がよいでしょう。姿勢は立っても座っても動いても構いませんが、動くとしたらほぼ静止しているかのようにスローダウンします。慣れてくれば場所を問いません。通勤の電車の中でも食事中でも可能です。言葉にして実況中継しなくても細かく観察するできるようになる頃には、日常生活でも自分の思考に気づきやすくなります。

重要なのは「私」という箱から中身を取り出して見るというプロセス自体にあります。瞑想によって悟りを開くとか、超能力を身に付けるというのは「私」のエンパワーメントを目指すことですから全く逆方向です。同じ理由から、静寂が訪れることを目的にする必要もありません。もっと立派な人間になろうという目的で瞑想すると、次々にやってくる無意味な思考に対して嫌な気分になり、プロセスをじっくり味わえないでしょう。(注)

一時間頑張ろうと思うよりも、ストレス解放のために十分間くらいやってみようと気楽に始めた方が楽しめるでしょう。寝る前にふとんの中で行って、そのまま眠ってしまっても構いません。怠惰な自己との闘いではありません。
こうするべきというコントロールではなく、「とりあえず体験してみよう」「もう少し長くやってみたらどうなるんだろう」と興味がある限りで行った方が、瞑想が迷走になることを避けられます。

私達の承認欲求は根深いものです。何かを得ようと無理に努力すれば、すぐに良いとか悪いと起こっていることを判定してしまうでしょう。そうなると自分はだめな人間かもしれないという思いが生じます。それを見ないために、すごいことが起こったとか、瞑想をしている自分は偉いと信じたくなるかもしれません。

こんなにいろいろな思考がやってくるものなのかと気付くことが収穫です。それはやって来ては去るものであり、自分という容器を通りすぎるだけだと実感するからです。それが実感できれば、ネガティブな思考が自分のせいであると思う必要はなくなります。

おまけとして、どれだけ体に力が入っていたのかに気付くでしょう。
例えば夜中にふと目醒めて、胸がざわざわするような不安な気分になることがあるでしょう。その時に瞑想を知っていれば、ただ観察できるようになります。それによって不安な気分が「胸の辺りが重苦しい」「体が縮こまるような感じ」と肉体の感覚に解体されつつ、通り過ぎて行きます。
結果として「あの時別の選択をしていれば今頃は…」「あの人に嫌われたかも」と不安に誘発されて生じた思考がますます不安を強化したり、不安を見まいと「自分は正しかった」「悪いのはあの人だ」と信じようと足掻くことから自由になります。

瞑想は唯一の手段ではありません。例えば書道や楽器演奏や手芸や武道といったはじめは細心の注意を要する作業に没頭することでも「私」という箱は解体可能です。これらの作業も賞賛されたり立派な人間になることを目指せば、箱は解体ではなく強化に向かいます。


(注)これはウ゛ィパサナとかマインドフルネス瞑想と呼ばれる方法です。但し流派によってやり方や目指すものが異なります。箱の中身を見ることではなく、悟りを開くことや超能力を得ることを目的にしている人々も少なくないことには注意が必要です。