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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

どうして狂信的になるのか その2

信じるということ

宗教には実存の問いを投げかける対象としての役割とアイデンティティとしての役割があると前回述べました。
実存の問いがすっかり抜け落ちて、アイデンティティのみの宗教が存在します。例えば「もうすぐ世界の終わりがやってくるが信者だけは助かる」とか、「神が選んだ人のみが天国に行く」というような教義を掲げるものです。

「自分よりも成功しているように見えるあいつらは救われないけれど、私たちは救われる」というストーリーは承認欲求を満たします。この手の教義は承認欲求に関して深い知識を持つ者によって、人々を支配する目的で作られたのかもしれません。あるいは承認欲求を満たしたい人々に支持されたからこそ長く受け継がれてきたのかもしれません。宗教が政治や権力と結びつく所以です。

自分はOKであると信じたい人は「君はOKだよ」と言ってくれる人を求めます。それは権威があればあるほど意味があります。
権威が一番高いのは神仏、次に神仏の代理人であると考えれば、そのような存在にOKをもらえるように振る舞うことが大切だと思い、教義や指導者の言うことに従うであろうことは容易に想像できます。
またある教団の信者のみが救われるという教義であれば、その信者として認められることイコールOKです。そのためには指導者や他の信者に仲間だと認められる状態を維持する必要があります。

このような信者のみが救われるというストーリーが存在しない場合でも、承認欲求はアイデンティティを求めます。
例えばブッダの教えにはその種のストーリーは一切存在しません。無常、無我の教えはアイデンティティとは相反するものです。にもかかわらず毎日何時間も座禅している自分はすごいと人に誇示したくなったり、仏教徒の自分達は他の宗教を信じる者よりも優れていると考えたりする者が現れます。
承認欲求は根深いものであり、理解しなければ容易に影響を受けてしまいます。

全く個人的なプロセスである実存の問いと異なり、宗教がアイデンティティとなると他者の目が何よりも重要になります。
そこで信じるふりをする状態や、信じたい状態が意味を持ちます。これらは他者の目を気にして、OKと認められるように自分をコントロールしている状態です。

信じているふりをする状態は「あなたと同じことを信じている私はあなたと仲間だよね」ということです。
信じる対象は重要ではありません。それは絆があることの口実に過ぎません。実際は疑っている場合もあれば、興味すらない場合もあります。

信じる対象が重要だと感じている人であれば、自分の内心と態度が相反することに対しストレスを感じるでしょう。しかし興味すらなければストレスは皆無です。やがて自分は本当に信じているのだと錯覚するようになります。

他方信じたいという状態ならば信じる対象を重視しているように見えますが、そうではありません。なぜなら真実であるかどうかは検証しないようにしているからです。つまり疑いを生じさせるようなことには目を瞑って、都合が良いことだけ信じようとする態度です。

都合が良いこととは、集団のアイデンティティを維持する方向に働くものです。
もしも疑いを深く追求すれば、他の仲間と対立をもたらすかもしれない危険があります。孤立や追放の憂き目に遭うかもしれません。安定した居場所を失うリスクを避けるには、はじめから疑問をもたないようにすることが一番楽な道です。

狂信的な人が本当に神の存在や天国などの教義を心から信じているとは限りません。それが自分達のアイデンティティ維持に都合が良いために信じようとしている可能性も存在します。

アイデンティティ維持の方が重要であることを知れば、教義がいつの間にか変更されても人々が意に介さないことも納得できます。
箱のパッケージで選択し中身の各論点については丸呑みする論点抱き合わせセットについて以前言及しました。突飛で過激な教えが教義が紛れ込んでいても受容されることは珍しくありません。

狂信的な人々について考察する場合は、教義よりも承認欲求とアイデンティティの問題に注目する必要があります。

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