承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

どうして狂信的になるのか その1

前回信じることを決意するというのは宗教的な信仰の核心だと書きました。しかし信仰と言えばオウム真理教やイスラム自爆テロなど理解不能な行動をとる狂信者というイメージを持つ人も多いでしょう。今回から数回にわたってどうして狂信的になるのかについて考察します。

宗教絡みの事件が起こると、その宗教やカルトの教義の危険性に注目が集まります。そのために良い宗教と悪い宗教が存在するかのように考える人は少なくありません。しかしそれはみんなという大箱の中にいくつもの小箱が並んでいるかのような世界の捉え方です。

例えばキリスト教という箱の中にいるのは愛の人で善良であり、イスラム教という箱の中は剣の人で野蛮だとレッテルを張る人がいます。そうすることは「やつら」と「われわれ」と区分して優越感を持つことはできても、どう対応すべきかを理解する助けにはなりません。
同じ教義を信仰しているからと言って同質ではありません。例えばカトリックの聖職者の中には、マフィアを断固拒否して殺害された人もいれば、病院への寄付金を流用して自宅をリフォームした人、小児に性的虐待をした人もいます。

そこでひとまず教義は脇に置き、信じることに関する態度に注目しましょう。
信じる、信じないという二分ではなくもっと細かく分類できることはこちら述べました。信じたり疑ったり無関心だったりすることは為すことではなく生じることです。信じることを決意している状態も、実は作為というよりは手放す状態であると前回結論しました。
そこで信じるふりをする状態と、信じたい状態の二つだけが、コントロールを続ける状態です。どちらも心から信じていないのにそうであるかのように振る舞います。

信じているふりをすることは、他者の存在なしには成立しません。誰もいない所で信じるふりをすることは無意味です。
信じているふりをする最大の目的は、他者との関係を維持することです。

友人が嘘をついていると気付いても、関係を壊したくないために信じるふりをすることがあります。友人が嘘をついているのではなくて本当に信じている場合でも同様です。
例えば「いやあモテて困るよ、職場でも自分を凝視する子がいてやりにくいよ」と言う友人の話に、「へー、すごいね」と話を合わせる人は少なくありません。みんなが信じているふりをしている中で「凝視するのは変だからかもしれないよ」と口にすれば、空気を読めない人だと非難されるかもしれません。仲間内のノリを壊すためです。

話を宗教に戻して他者との関係を軸に考えると、宗教には二つの役割があることに気づきます。

ひとつは実存の問いを投げかける対象としての役割です。自分はなぜ生まれたのだろう、なぜ死ぬのだろう、どうしてこれほど辛い目に遭うのか、自分は生きていてよいのだろうか…。このような問いを人はしばしば神や生まれ変わりなどの概念で理解しようとします。これが前回述べた信仰の核心です。

もうひとつはアイデンティティとしての役割です。例えば「私は拝火教徒だ」とか「私はプレアデス星人の弟子だ」と、教義や指導者の元に集まった団体に所属していると認識することに意味を見い出します。

例えばいけにえを神に捧げて雨を祈るというのは、苦難に際して共同体の結束を固めようとしているものだと理解することができます。ユダヤ教のような選民思想がアイデンティティに関わることは明白です。
勧誘されて優しく話を聞いてくれるからとカルトに入る人について、なぜ簡単に信じ込むのか不思議に感じる人が多いでしょうが、自分の居場所を探していたのだと考えれば納得できます。

この二つの区分でさまざまな宗教を眺めると、本来実存の問いを投げかけていたはずが、いつの間にかアイデンティティがメインに変容する場合が多いことに気づきます。これが生じるのは承認欲求はアイデンティティを求めるからです。

続きます。

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