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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

信仰の核心

前々回からの続きです。信じるということに関して七つの状態を挙げました。

心から信じることやその信が疑いに変わることは「為す」ことではなく「生じる」ことです。
それは恋愛に似ています。好きになることも嫌いになることも生じることです。きっかけが存在するにしても、そのきっかけで誰もが同じ感情を抱くとは限りません。努力次第で好きになったり嫌いになったりすることが可能ならこれほど多くの人が悩むことはないでしょう。

他方、信じることを決意している状態、信じたい状態、信じているふりをしている状態の3つには作為が介入します。状態をコントロールしようとしています。

このブログでは承認欲求は自分はOKであると信じたいことであり、それは無意識に発動すると何度も述べてきました。信じたいと思う時点で、現在そう信じていないことを意味します。しかしそれを意識すれば、自分をOKだと信じ込むことは不可能になってしまいます。
それでは信じることを決意するという状態はなぜ可能なのでしょうか。今回はこの点を考察します。

実は信じることを決意するというのは宗教的な信仰の核心です。

この状態の一番分かりやすい例は親鸞です。彼は様々な試行錯誤の末に、自力救済を諦めて阿弥陀の慈悲に縋ることを決めました。自分は信じることに賭ける、法然に騙されたのならそれでも構わないという決意があります。(注1)

このブログで述べてきた承認欲求に関する文脈で言い換えると、次のようになります。
「私はだめな人間です。しかし阿弥陀様は最後の一人まで救うと言っているそうですよ、法然さんから聞きました。私はこれを信じてお任せすることにしました。阿弥陀様の存在は嘘かもしれませんがそれでもいいんです。信じることで頑張ってOKにならなくてはともがく苦しみから即座に解放されるんですから。」

別の例を挙げます。イスラム教です。中田考さんのブログのやさしい神様のお話から引用します。(注2)

 私たちはだれも、気が付いた時にはこの世にいます。なんのためだかよくわかりません。なんでこんな顔をして、なんでこんな頭をして、なんでこんな性格なのかわかりません。でも、いるということは、神さまが、それでいいんだよ、そのなりでそこにいたらいいんだよ、と許可証を出してくれているということです。

 それはつまり愛の印です。神さまが私を愛しているという印なのです。だから、いる必要のない人とか、まちがってそこにいる人とかはひとりもいません。

 神さまによって明かされた神さまの唯一性とは、存在するのは神さまだけで、そこには「わたし」は存在しないということです。かつてわたしが神さまとならんで存在したことはなく、これからも存在することはありません。また、神さま以外のどんなものも、かつて神さまとならんで存在したことはなく、今も、これからも、ありません。ただ神さまがすべてのものに寄りそって存在するのであり、そうした神さまの寄りそいがなければ、なにものも存在しません。

Hassankonakata: やさしい神様のお話

神様が存在するのならば私はOKだ、いやそもそも神様だけが存在し私は存在すらしないのだと述べられています。
承認欲求のキーワードは「自分」「OK」「信じたい」という三つでした。神様を信じることを決意すればこれらは消滅してしまいます。誰もが無条件でOKであり、そもそも評価されるべき自分は存在しません。とすれば、自分はだめな人間かもしれないと思い悩む必要はありません。

以前承認欲求がない状態とはどのようなものかについて考察した折に、「自分」を意識しない状態について言及しました。
信じることを決意するとき、決意という作為があります。しかしこれは自分を自分という牢獄から解放する最後のひと押しです。

信じることを決意することは、宗教に限りません。前々回に挙げた例は抗がん剤でがんが消えると信じることでした。重要なのは信じる対象ではなく、それは個人的なプロセスであるという点です。

信じることを決意するに至るまでには、情報を収集したり、比較したり、考えたり、悩んだりするでしょう。そのじたばたを経て、これに賭けるしかないという決意に到ります。それはコントロールすることを手放す状態と見做すこともできます。
疑いを覆い隠すものではないため、決意後も本当にこれで良かったのかという疑問がしばしば頭をもたげる可能性もあります。信という膜の中で安定した状態ではなく、信じることで不安定であることを受け入れる状態です。ある日信じることをやめて方向転換する可能性も皆無ではありません。

信じることを決意している状態の人は、他人にこれを信じろと押し付けることは困難です。他方、信じたい状態と信じているふりをしている状態では他者への押し付けが必須です。

次回は信仰の核心が承認欲求によってどう歪められるかについて考察します。


(注1)多くの既成宗教は教義の解釈に幅が生じ、それが原因で分岐します。ここでの親鸞の解釈に一番近いものは倉田百三「出家とその弟子」です。こちらで読めます。
但しこの小説はキリスト教からかなりの影響を受けており、愛や悪魔など仏教に存在しない概念が混入していることには注意が必要です。親鸞や浄土真宗自体の理解よりも、一神教的な救いの宗教の核心を理解するための参考文献と心得た方がよいでしょう。単に小説として読んでも面白いです。

(注2)「やさしい神様のお話」は、序文はさておき、本文は大変読み易く、信仰がなくても興味深く読むことができます。一神教の宗教の核心を知る上で、すべてを読む価値があります。


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