承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

建前と本音 その2

前回ヘイトスピーチや暴言を例に挙げましたが、私の関心ははその種の行為の批判ではありません。考察したいのはその背後にある「みんな」という大きな括りと建前と本音という分離です。この一見正反対な二つの組み合わせは、ヘイトスピーチや暴言だけではなく、キャラの使い分けや多重人格問題にも繋がるものです。それは私とは何かというアイデンティティの問題に踏み込む鍵となります。

「みんな」という大きな括りは、元々はまとめることで状況を把握し対応する速度を上げることが目的でした。これは思考のショートカットとして過去に考察しています。
チワワに噛まれ、柴犬に追いかけられ、ブルドックに引っ掻かれた人が、犬は危険だと学習することは容易に理解できます。「この犬はシベリアンハスキーだから大丈夫」と説得しても無意味でしょう。その人が自分の子供に「犬は危険だから近づかないように」と注意するのも合点がいきます。

しかし承認欲求が関与すると、無理やり統合してそれを普遍性がある真実だと信じようとするルールの書き替えが生じます。
例えば怯える自分は弱くないと感じるために犬を危険動物だと一般化するとき、その人の関心は理解や問題解決ではなく評価と感情の惹起です。犬は吠えてうるさい、お犬様にかける金があるなら貧乏な子供に回すべきだ…と嫌悪の感情に燃料を与える方向での連想が生じるのは、他者も犬に悪感情を持つべきだと思うためです。
一旦括られると、それにあてはまらないケースは例外として扱われます。

別の例を挙げましょう。
「日本人は優秀だ」とまとめてレッテルを貼る場合、日本人が海外で殺人事件を起こしたというニュースを聞けば、国籍は日本でも生粋の日本人ではないのではないかとか、海外で日本人としてのモラルを失ったのだとか、殺された方にも非があるのではないかという思考に向かいます。

「痴漢は冤罪だ」と一括りにする人もいます。「痴漢をしない男性もいる」と言い出す人は、痴漢行為をするのは例外的な男性だという主張が目的です。その人は「すべての男性は」と翻訳しているのは自分自身であることに気づかず、その話題で自分が貶められたように被害妄想を抱きます。被害に遭う女性にも非があると言い出す人も少なくありません。

このように「みんな」という大きな括りは、承認欲求が絡むと変質し硬直したものになります。
状況を素早く把握するためにまとめるのであれば、「みんな」という枠は一時的なものなので状況に応じて解体可能です。しかし同質なものとして括り、それに「信じたい」という欲求が加われば、分解してばらばらにすることは困難です。そこで齟齬を内部で調節する必要が生じます。

これは大きな箱の中に別の小箱を用意するとイメージすれば分かりやすいでしょう。まず「みんな」と括って同じ箱に入れ、次に箱の中で分離します。不都合なものは例外という小箱に入れてふたをすれば、大きい箱の中は同質性があるように見えます。
この最初に統合してから分離する「箱の中の箱モデル」は、小箱の中にさらに小さい箱を入れたり、大箱の中にいくつもの箱が入っていたりと様々です。
これが承認欲求が強い人の世界の認識の仕方のモデルです。

建前と本音という分離はこの箱モデルで説明することが可能です。
例えば中東からの移民について、戦災から逃げてきた気の毒な人達と捉える人と危険なイスラム教徒と捉える人がいます。自分の意見が正しいと信じたい場合には、「移民はみんな」と大きく括りつつ都合の悪いことは例外として処理します。
更に日本人として自分達を括ります。そこには日本人ならばみんな同じように感じるはずだという前提があります。そして自分と異なる見解は例外という小箱に入れます。

建前というのはこの例外としての小箱につけられた名称です。移民はみんな危険だと感じる人は、移民は気の毒な人達だから受け入れるべきだという考えを「本当は自分も嫌なくせに建前のきれいごとを言っている人」と見做そうとします。
逆に移民はみんな気の毒な人達だと感じる人は、移民排斥を望む人を例外としての小箱に入れレイシストという名を付けます。
どちらも「みんな」という大箱の中の主流派争いだと考えることが可能です。纏めて大箱に入れることの必要性から検討しない限りは絡まった問題を解決することは困難です。