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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

序列 その5 経済格差について

前回平等について言及しましたが、この言葉は非常に誤解を生じやすいものです。今回はその補足も兼ねて、格差について考察します。

格差と言ってまず思い浮かべるのは経済格差です。経済的に豊かな人と貧しい人が存在します。
世の中には経済格差は全く存在すべきではないと考える人がいます。
一方で経済格差と人間の優劣を混同して、貧乏人は努力を怠っているので死んでも仕方がないと考える人がいます。
この二つの主張のどちらかを選ばなければいけないとするのはあまりに極端で単純化された思考です。

序列その1で選別のための序列について考察しました。誰が一番足が速いとか成績が良いとかの選別目的の序列に関して、人間の優劣とよく混同されるということについて述べました。
経済格差を足が速いということに置き換えてみましょう。

経済格差は全く存在すべきでないという主張は、運動会でみんなで手を繋いでゴールインすべきだとか、走るのが遅い人が傷つくから競争をやめろという主張に似ています。
この主張が生じるのは平等という概念を結果の平等、つまり結果に差がつかないことだと考えるためです。平等は悪だと考える人もこのイメージに影響されています。
このような結果の平等の強制は憲法で保障された平等概念とは異なるものです。憲法の平等は人権の保障が目的です。しかし結果の平等は差異が生じることで集団の一体感が失われることへの恐怖が動機であることが多く、全体主義や同調圧力と親和性の高いものです。

他方、経済格差を絶対視して人間の優劣としての序列と同一のものだと見做す主張は「走るのが速い人間が価値があるのだ、のろまな奴は速い人に奉仕することによってのみ価値が与えられるのだ」と考えることに似ています。
走るのが速い人は自分は日々練習していると主張し、他者に努力が足りないと罵倒するかもしれません。しかし多くの人は運動能力は生まれつきの運の良さに依る面が多いことを知っています。練習すれば上達することは事実ですが、いくら努力しても実を結ばないケースもたくさんあります。そもそも走るのが遅い人は走ることに喜びを見出せず、なぜ走らなければならないのか分からないかもしれません。

走る速さを人間の優劣の序列の目安にすることに同意する人は稀ですが、経済格差を人間の優劣の序列の目安にする人は決して少なくありません。
金を稼ぐことに喜びを見出せない人は存在しますが、そのような人は社会人失格だと罵倒されることすらあります。持病や運の悪さは無視され貧乏なのは自己責任だと言う人もいます。餓死しても仕方がないと思うことは稼げない人は生きる価値がないと考えるのも同然です。
どうして経済格差を優劣の序列と混同してしまうのでしょうか。

第一に経済活動は成人の大多数が関与するためです。
もともとやっていることなので、わざわざ走らせて記録をつけることと同一視すべきでない、それは自然に生じる序列だと考えることは理解できます。しかしそれは経済活動の序列であり、それを人間としての優劣にまで拡大する必要はありません。
経済活動を人間の優劣の目安とすることは、病気で経済活動に関与できない人にも劣等感を与えます。他者を自分の価値観に無理やり組み込みバカにすることで承認欲求を満たそうとする人間が存在することは承認欲求の呪縛の問題として過去に考察しました。

第二にお金は物やサービスと交換可能であるためです。
命令されれば反発する人でも、金を払うならば受け入れる場合が多いでしょう。それがエスカレートすればいわゆる「札束で顔をひっぱたく」という行為になります。
例を挙げましょう。通りすがりのAさんに「うちのゴミを片付けてくれ」と命令すれば激怒されるでしょう。5万円払うからと言えば拒否される可能性はあっても激怒されることはないでしょう。100万円払うからと言えばたとえゴミ屋敷でも受け入れられる可能性は高いでしょう。
これは金があれば相手を支配できるという考えに繋がります。

第三に数値化による分かりやすさのためです。
自分の立ち位置をはっきりさせて自分の優位性を確かめたい人には、数値で測れる経済格差は序列の基準として好ましいと感じる場合があります。たとえ貧しくても、もっと下がいるという事実が安心に繋がる場合もあります。
これに比べて走る速さの比較は年齢や男女という差異も考慮するならば複雑になります。実は経済格差も親から引き継いだ豊かさを考慮すれば比較は複雑になりますが、そのような主張はめったに聞きません。

第四はお金の保存可能性、自己増殖性のためです。
走るのが速い人はそれを基に人間の優劣の序列を作ろうとは思いません。いつまでも序列の上位を維持できないことは明白です。怪我をしたり、年をとれば地位の入れ替えが生じ、命令される側になるでしょう。指導者になれるのはごく一部です。
経済格差の場合は一旦大金を手にすれば貯蓄や投資という形でその豊かさを維持することが可能です。そのため地位の入れ替えを想像しにくく、「自分も弱者の側になる可能性があるからセーフティネットが必要だ」とはなかなか考えません。

第五はアイデンティティと結びつきやすいためです。
経済的豊かさは親兄弟からの金銭的、人的サポートに依る部分が少なくありません。またどの国に生まれ育ったかによって、貧富の差は大きく左右されます。そのために経済格差はアイデンティティと結びつきやすい面があります。
また金持ちと貧乏人では生活習慣が異なるために対等に付き合うことは容易ではなく、その結果経済状況が似た者同士が集まりやすい傾向があります。

第六は経済力の欠如は生きるか死ぬかの問題に直結しやすいためです。例えば食費や病院代に欠けば死に直結します。
もっともこれは経済格差を人間の優劣の序列と結びつけた結果です。経済格差と序列を混同しなければ、生活保護制度の充実、ベーシックインカム制度の導入など何らかの政治的施策によって、格差が生死と直結することは避ける方向に進むことが可能です。

あえて大きな経済格差を放置することは、貧乏であれば生きること自体が困難な状況に追い込まれることに繋がります。
格差を大きいままにしたいと考える人が存在します。豊かな自分イコール優れた自分と信じたいためです。優位性の確認のみならず、上述の他者の支配やアイデンティティというキーワードも承認欲求と親和性があります。

承認欲求が強い人にとっては、貧乏なのに幸せそうに生きている人間は許しがたいものになります。金をたくさん持っていることが大切だという自分の誇る価値を否定する存在だと捉えるためです。
憲法に生存権は規定されているにもかかわらず、生活保護を貰うことは恥ずべきことだという空気が社会に存在します。それはお前はOKではないという承認欲求の呪縛です。