読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

「本当の私」の落とし穴

自己と向き合う

前回承認欲求は生身の感覚にチューニングすることを遠ざけるという話をしました。こうあるべきという像に自分を当てはめようとしても生身の感覚が凌駕する場合があります。今回はその時に何が起こるかについて述べます。

生きている限りこうあるべきという規範にしばしば遭遇します。納得ゆえにそれに従うことに抵抗がない時もあれば、無理強いされていると感じる時もあります。その感覚は承認欲求がない時でも生じるものです。

自己をOKかどうか採点する意識がなければ、強いられていると感じた時に課された役割を演じることを引き受けるか、無理だと投げ出すかの選択を罪悪感なしに行うことができます。あるべき振る舞いと生身の感覚が衝突する時には、無理な役割を押し付けられたのだと捉え、生身の感覚を優先します。

一方承認欲求が強い状態では、あるべき自分という自己像に日頃から慣れ親しんでおり、その呪縛は強力です。そのため無理をしてでもそれに合わせようとする力学が働きます。それでもどうしてもそれが不可能で生身の感覚が凌駕してしまう時には、自己が破壊されるような不安定な状態をもたらします。また隠れていた自分はOKではないという不安が浮上します。

そこでしばしば登場するのが「本当の私」という概念です。「以前思っていた私は演じていたものだった、本当の私はこうだ」と新たな自己像への鞍替えが生じます。新たな自己像は新たなモデルにすぎません。それは状況によって刻々と変化する生身の感覚ではありません。

新たなモデルが見つからない場合には、自分探しという状態になります。自分にフィットするモデルを探す作業です。もっとも意識上では自分の奥底にあるダイヤモンドの原石を探し出して磨くようなつもりでおり、決してモデルを探しているのだとは考えません。

こうあるべきという呪縛の解放は、これまで無視あるいは軽視してきた生身の感覚を取り戻すプロセスです。その時は自己像への執着は存在せず、そのために自分がOKかどうかという評価からは自由です。
ところが「本当の私」という概念が介入すると、新たなこうあるべきというモデルに自分を当てはめようと、生身の感覚を再び否定することになります。それは確かに古いモデルよりも現状にフィットおり、かつてのような息苦しさは感じられないでしょう。しかしその状態が長く続くかどうか分かりません。

生身の感覚とはただありのままの状態を受け入れることです。但しこの「ありのまま」が「私」と結びつき「ありのままの私」という概念となると、それは「本当の私」と同様に従うべき新たなモデルです。問題は「ありのまま」や「本当」ではなく、「私」の方に置かれた重点です。

例を挙げましょう。
嫉妬は醜いものだと多くの人は考えます。妻が浮気している場合に見て見ないふりをする人がいます。自分が怒っているのは浮気ではなく家事が疎かになっていることに対してだと正当化して怒りをぶつける人もいます。あるいは内心では怒りながらも寛容で冷静な夫を演じる人もいます。これらはいずれも「あるべき自分」が嫉妬の感覚に優先している状態です。

嫉妬があるべき自分を凌駕した場合に、「本当の自分」「ありのままの自分」へとスタイルを変更するとはどういうことでしょう。嫉妬を表面化し相手にぶつけた上で、「正直に感情を吐露できる自分はかっこいい」と自己を評価したり、あるいは「自分は被害者だ、悪いのは妻や愛人だ」という自己を正当化する状態です。それらは自分はOKだと信じるための行動、つまり承認欲求に基づく行動に他なりません。

正直に振る舞う自分はかっこいいと思う時には、「ありのままであるべき」という価値感が介入しています。つまり新たな「あるべき自分」への鞍替えに他なりません。鞍は替えても承認欲求という馬に乗っており、自分に興味が集中しています。そのために、子供たちへの影響への配慮、どう事態を収集するかという展望、妻に怒りを伝える方法の模索などは疎かになります。


関連ポスト
承認欲求がない状態とは - 承認欲求の考察