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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

押しの強さと個性の希薄さ

承認欲求が強い人は自己アピールのために自己愛が強いと思われがちです。愛とは執着のことであると定義するならば、確かに承認欲求は自己愛の強い状態です。どんな話題でもつい自己に引き寄せてしまいます。言い換えれば、「自分」が頭から離れない状態です。
しかし他方で、承認欲求の強い人を観察すると言動がありきたりであることに気が付きます。尖った意見を言っているようでもネットで検索すると同じ意見がわんさと出てくる状態、つまり尖っているのは集団であって個人としては平凡であることは決して珍しくありません。
この凡庸さ、個性の希薄さは「自分」押しの強さと矛盾しているようにも見えます。今回はこの点について考察します。

承認欲求は自分はOKだと信じたい気持ちです。自己に対する評価を気にするということは、他者の目を意識することと同義です。ここで言う他者とは、世間という名の不特定多数を意味する時もあれば、特定の個人を意味する時もあります。いずれにせよ、他者が自分にどんな振る舞いを求めているのかを気に懸けます。

こうあるべきという思いは時として自然な振る舞いを不可能にします。例えば給食を残さずに食べなければならないとしたら、現在どの程度満腹かを問うことは無意味です。むしろまだ食べ終わるまでは、満腹感を感じないようにする方が楽です。そこで「残さずに食べるべき」という思いが生の感覚よりも優先されます。

別の例を挙げましょう。物分かりの良い母親であるべきだと思っているならば、息子がガールフレンドを家に連れて来たことに対する怒りは不都合です。そこで自分は怒っていないとか、怒っているのは洗濯機の調子が悪い事に対してだと自分自身に対して偽ります。

更に別の例を挙げましょう。
上司と良い関係を築きたいと思えば、上司の冗談が面白いかどうかよりも、上司はどんなリアクションを求めているのかが重要になります。上司は笑いを取ろうとしているのだから、面白いかどうかを感じる前に大げさに笑う方が楽です。全く面白くないと感じれば、笑うことに自分を偽っているという罪悪感が芽生えます。ロボットのように自動的にあるべき反応をした方が葛藤が生じません。

承認欲求は生身の感覚にチューニングすることを遠ざけます。この状態が日常的になると、次第に自然の振る舞いとはどういうものかということが分からなくなります。見られている自分を意識するあまり、沸き起こる感覚を見失ってしまうのです。

自己の感覚からのインプットが弱くなることに比例して、他者の影響が増加します。こうあるべきという手本のまねをするために言動が定型的になります。人物像を丸ごとコピーすることも良く見られます。そのため服装から言葉使いまで似たものになる場合もあります。

他者のまねは他にもメリットがあります。自意識過剰からの緊張を和らげる効果です。自分がOKかどうか採点されているという緊張を、他者に擬態することで避けることができます。そのため同調圧力がなくても自ら積極的に他者のまねが行われることがあります。

たとえ常識からかけ離れたような尖った意見であっても、検証すればその人の属する集団では典型的な意見であることが分かります。極端化することはあっても、決して集団の方向性に水を差すような意見は述べません。集団内で承認されることが発言目的であり、その話題自体に興味があるわけではないからです。承認欲求が強い人はその信じたいという思いからカルト化しやすいことは前に述べた通りです。

承認欲求が強い状態ではしばしば外に向かっての過剰な自己のアピールが見られます。それはあたかも希薄な自己を強く押し出すことによって補っているかのようです。この状態で個性を出そうとする努力しても、ステレオタイプなものをグロテスクに強調しただけに終わることは少なくありません。

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