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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

象を撫でる

前回、現実を二項対立や序列のような分かりやすい世界であるかのように錯覚すると書きました。今回はこの点をもう少し詳しく考察します。

群盲象を撫でるという仏教説話があります。盲人ばかりの村に初めて象がやって来ました。村人たちは大きな象を撫でて「くねくねした蛇のようなものだ」「ぺらぺらぱたぱたした薄っぺらいうちわのようなものだ」「ざらざらした壁のようなものだ」「太い柱のようなものだ」「細い紐のようなものだ」と言い争いになるという話です。

この説話はさまざまな解釈が可能です。私は以下のように考えます。世界は大きく複雑で、私たち人間は全体像を見ることはできず、ただ一部分に触れることができるのみです。だとすれば、自分の手触りのみが真実であると争うことは愚かなことです。

承認欲求が強いと、自分の見解に同意されないことを自分が否定されたと捉える傾向があります。しかも、信じたいという気持ちが知りたい気持ちに勝るために、異なる見解は深く検討することなく排除しようとします。更に、不安を排除するために物事を単純化します。その結果異なる見解の表明する者には嘘つきであるとか馬鹿であるとレッテルを貼り、排除か矯正を施そうとします。

もっとも自分の見解は少数派だと認識した場合には、自分の見解をあっさり撤回して大勢に従うことがあります。これが生じるのは象の姿よりも自分がOKであることの方が重要だからです。少数派グループ内でリーダー格になるなど承認欲求を満たす可能性があれば、そのような撤回は生じないでしょう。

承認欲求の強い人が求めるのは分かりやすい世界です。敵か味方か、上か下か、○か×か。対立する二項を統合することは不可能です。世界を単純化して白と黒に分けることで世界を理解したつもりになることができます。しかしもしもそれが実際の象と異なるのならば、そこで得られるのものは安心感でしかありません。安心を求めるのは緊張があるからです。

もしも象の姿が蛇のようだったり壁のようだったりする動物だとしたら、それは恐ろしいことでしょうか。それとも謎解きの面白さを感じるでしょうか。面白いと思えば、更に触れてみようとするでしょう。
知ることよりも信じることを求めるのは、知るプロセスに喜びを感じられない一方で、知ることは恐怖を減少させるのではなく増幅させるものだと感じるからです。
承認欲求が強い人ははじめから象に触れようとしないことも珍しくありません。自分で触れてみなくても触れた人に聞けば十分であり、わざわざ危険を冒す必要はないと思うからです。

対象にあまり興味がないにもかかわらず、議論には参加したがります。それは安心を求めることが目的なので、異なる意見を嫌います。実際に触れることと伝聞を同一視する程なので、それぞれの体験に対するリスペクトがありません。「自分はこう感じた」と表明する人に対して平気で「そう感じるべきではない」と言えるのはそのためです。

象の姿を知りたい人が集まって討論することは、たとえ合意に至らなくても楽しいことです。しかしその場に承認欲求が混じると「細い紐で人畜無害だよ、はい、この話は終了!」という結論の催促や、「俺の体験を否定するのか」という言いがかりや、「村長が柱と言うんだから柱なんだよ」という権力を笠に着た圧力や、「ふわふわの羽毛で覆われています」という注目を狙った嘘などで、混乱し荒れたものとなります。