読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

3つのキーワード その3「信じたい」

今回は「自分」「OK」に続いて三番目の承認欲求キーワード、「信じたい」について考えます。

「信じたい」というのは、「知りたい」と対極をなす観念です。この二つはどう異なるのでしょうか。
「知りたい」というのは、知らないという認識が前提にあります。道に迷ってどちらの方向に行こうかと思案している状態を想像して下さい。一方「信じたい」は分からないという状態は心地悪く、自分は知っていると思いたいことです。「自分は道に迷ってなんていない、正しい道を歩んでいるのだ」と自分に言い聞かせている状態です。

知りたい人はそれに関する全方位の情報を集めようとします。一方信じたい人は、自分が正しいことを補強する情報のみを集め、逆の情報は遮断します。信じたいということ自体が意識には上がらない場合がほとんどです。自分が信じたいということに気付いてしまうと、本当は分からないという心地悪さが浮上するからです。そのために本人は中立な立場で検証しているつもりでも、一方的な情報ばかり収集し反対方向の情報は軽視します。例えばAとBという対立する意見がある場合に、自分はAの正しさも知っているしBの主張が嘘ばかりなのも知っていると思い、双方の情報を十分把握したつもりになります。

その結果、現実世界と自分の認知の間には「信」という膜が張られたような状態になります。無礼な男に怒っている女性が、その男の膜を通せば自分に気があるツンデレの女性に見えたりと、膜の中の世界は自分にとっては心地よい世界です。膜は見たくないものを遮断してくれます。外から見たら思い込みに凝り固まった人に見えることもあります。承認欲求が意識に上らない領域で膜を強化、修復する作業を続行する様子は、一見優雅に泳ぐ水鳥が実は水面下で足をばたばたさせることに似ています。

もしも膜が薄ければ、ぼんやりと見える外の様子が気になり、膜が破られる不安は残ります。
そこで同じ見解の人に引き寄せられます。集団となることで膜は強化され、安心感で気分は高揚します。仲間としての一体感から、ある事柄に関する見解の相違ではなくグループの対立だと捉えるようになり、敵か味方かという単純化した区別を始めます。仲間内でのウケを狙って言動はヒートアップします。自分たちは正義の知者であると考える一方、相手には愚者や悪人などとレッテルを貼ります。正義の戦いを勝ち取るべく賛同者を広く募るのもこの段階です。

しかし社会に自分たちの意見をアピールすることは、反対の意見と接触する機会ともなります。仲間が敵に論破されたり意見を変えることは、信を揺るがす大きな危険です。そこで見解を統一し、理論化し、メンバーが勝手な行動をしないように同調圧力と序列によって管理するようになります。こうして烏合の衆は組織に発展します。メンバーの不満をかわすために、敵がいかに手強い巨悪であるかが語られるようになります。同時に敵を罵倒嘲笑して、寝返ると自分も嘲笑されることになると思わせます。この時点で疑問を呈する者やノリについていけない者は居心地が悪くなり離れていきます。

こうして組織が完成していくほど組織内部は全体主義的になります。内部からの批判を徹底的に排除するために、方向を調整する余地がなく、世の中の現実からどんどん乖離します。社会から受け入れられないことで被害者意識が強化され、そのために妄想が膨らんで、主張は極端かつ攻撃的になります。

組織が反社会的になると、社会からの制裁で壊滅させられるか、あるいは社会を巻きこんで自滅します。現実に即して組織の方向を修正できないために、長期に渡って組織を持続することは不可能です。但し指導者が交代することで軌道修正が可能になり、穏健な組織に変容する場合もあります。

これはカルトの辿るプロセスであることに気がついたでしょうか。何を信じるかはさして重要ではありません。学校も職場も趣味のサークルもカルト化する可能性があります。信じようとすることは本質的に攻撃的なものです。なぜなら疑念を排除し続けねばならないからです。感じ方の多様性は拒否され、非寛容になります。

もっとも何かを信じたい人がすべてカルト化する訳でもありません。軽視し難い真実を突きつけられて、信じることを中断せざるを得ない場合も多いからです。「限界に挑戦して働くことで人間は向上する」というブラック企業の価値観を信じても、過労で倒れて退職すれば通常は目が覚めます。
カルトと言うと宗教集団を思い浮かべるのは、宗教的教義、例えば死後の世界や神の存在は真実かどうかの検証ができない故に現実直視の機会が限定され、反社会的行動を起こすところまで至りやすいためです。