承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

3つのキーワード その1「自分」

私の承認欲求の定義は、自分はOKであると信じたい気持ちであると前回述べました。今日は「自分」「OK」「信じたい」という3つのキーワードのうち、「自分」について考えてみましょう。

例えば英語のテストの成績が悪かった場合に、「英語のテストの成績」に注目するか「自分」に注目するかによってその後の対応は異なります。
前者の場合、事前の勉強が足りなかったとか、文法が弱点だとか、原因の分析と次回への対策が次のステップになります。しかし「自分」に焦点を合わせてしまう場合は、自分は馬鹿だと落ち込んだり、それを否定するために「勉強なんてどうでもいい、勉強はできるけどのろまなAよりも機転の利く自分の方が金儲けは上手に決まってる」と承認欲求が生じたりします。

別の例を挙げましょう。会社の同僚が「最近ジムに通い始めたんだ」と話した時に、「会社の帰りに通っているのか」「どんなメニューをこなすのか」と興味を持つ人もいれば、興味がなく「あっそう」とスルーする人もいます。ところがその話題を「どうせ自分は運動が苦手なデブだし」と自分に引き寄せて受け止めた末に、同僚に対して「頭からっぽの筋肉自満かよ」と内心で悪態を突く人がいます。

なぜ「自分」に注目してしまうのでしょうか。
私たちの社会では、幼い頃から強く「他者の目に映る自分」「評価にさらされる者としての自分」を意識するように条件づけが行われています。親の言う通りにすれば良い子だと言われ騒ぐと悪い子だと叱られるように、行為の評価は主体である自分に収束します。頻繁に他の人間と比較されることにより自己意識は更に強化され、こういうキャラを演じれば他者に受けが良いということを少しずつ学習します。また大学生になる、銀行員になる、母親になるという言い方から分かるように、自己が演じるべきキャラが変化していくようなイメージを人生に抱くようになります。それは常に何者かとして振る舞わなければいけない自分、うまく脱皮して蝶にならなければいけない自分というプレッシャーと表裏一体のものです。このような人生観を身につけると、常に「他者の目に映る自分」を意識するようになり、自分を取り巻いている世界とそれに働きかける行為を、「自分の価値」に収束してしまいがちになります。自意識過剰な状態です。

自分にスポットライトを当てると周囲は見えにくくなるように、自分に意識が集中すればするほど他者への興味は薄れます。例えば親切な行為にしても「良いことをしている自分」に意識が集中して、相手が実は迷惑していることに気づかなかったり、感謝しないことに怒りを感じたりします。

承認欲求が強くなると、OKであると信じるための自己イメージの形成そのものが目的となり、世界はそのイメージを形成するためのネタとしての意味しか持たなくなります。
例えば「人も羨むような美人と付き合っている自分」が好きなのであり、目の前にいる彼女の心情には関心がなかったり、「売れっ子作家である自分」をキープするために他者の作品の剽窃を平気で行ったりします。
自分自身すらネタとしての重要性しか持たないものになります。自分はこういうキャラだと思い込みそのイメージに合わせて振る舞うことは、それと異なる自分の感覚を切り捨てることに繋がるからです。

他者と対等な関係を結ぶことも困難になります。他者は自己イメージの形成維持のためのネタであるか、自分をOKであると評価する者か、自分を貶めようとする敵か、あるいは全く無関係の背景のようなものか、四つのカテゴリーのどれかになってしてしまうからです。

窓ガラスに映った自分の姿を見ているとき窓の外の風景はぼんやりとしか見えないように、自己への関心の集中は世界をありのままに観察することを不可能にします。こうして一瞬ごとに変化する生き生きとした世界の代わりに、のっぺりとした記号としての世界が広がります。あるふとした拍子にぽっかり空いた概念と現実の裂け目を感知してしまうと、自分は何か間違っているかもしれないという不安となり、その不安を見ないためにますます承認欲求が強化されるという悪循環が生じます。