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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

承認欲求と呪縛のループ

このブログは承認欲求をキーワードに、生きることの苦しさや、人間関係の確執、いじめ、カルト、貧困、戦争などの苦しみを生み出す社会現象に関して考察し、それらから自由になる道を探ります。

承認欲求とは何でしょうか。
その定義は人によってさまざまですが、他者に認めてほしい、受け入れられたいという欲求だという意味で使用されることが多いようです。私はこの言葉の定義を「自分はOKだと信じたい気持ち」とします。私の定義は自己完結的です。それは他者とは世間という名の脳内の存在にすぎないケースも考慮したためです。「自分」「OK」「信じたい」というキーワードについては、別の機会に詳しく取り上げます。この定義で承認欲求について考えることは、自分とは何かを考えることと重なります。

こうあるべきというメッセージは社会に溢れています。例えば冒頭に生きることの苦しさと書きましたが、「そんなネガティブだから駄目なんだ、もっとポジティブになるべき」と言う人がいます。この他者の言葉を真に受けてしまうと、苦しいと感じる自分は間違っている、そう感じる自分は駄目な人間なのかもしれないと不安が生じます。

自分はだめな人間もしれないという不安が生じたときに、それが引き起こす反応は三種類あります。直視して気持ちが落ち込むか、ぼんやりとしか見えないようにアルコールやゲームなどに逃避するか、自分はOKであると信じようとするかです。

この三つのうちの最後が承認欲求であり、このブログのテーマです。他の二つと比較して自覚が困難です。自分は信じたいんだと気づけば、目を逸らせたい自分はだめな人間かもしれないという不安が浮上し、信じることが困難になるからです。
承認欲求を他の二つよりも重視すべき理由はもうひとつあります。これが当たり前、こうあるべき、できないのは駄目な奴だというメッセージを再生産することです。

どうやったらOKだと信じることができるでしょうか。
まず「自分はOKだ、なぜなら…」と根拠を探します。生き苦しさの例ならば、自分は楽観的で明るい人間だと感覚を偽ったり、逆に苦悩するのがかっこいい、楽観的な奴は幼稚だと正当化したりします。
あるいはそんなことはどうでもいいと、全く別のOKだと思える理由を探します。正論を言うとか、優秀とか、容姿端麗とか、腕力があるとか、必要とされているとか、頭に浮かぶ自分の強みは人それぞれでしょう。

自分に際だった強みがない場合は、属性的なアイデンティティに頼ります。例えば資産家の一族だとか、男は偉いとか、日本人は優れているとか、上場会社の正社員だとか。自分が属するグループは他よりも上、だから自分はOKだという理屈です。あるいは「自分は被害者だ、駄目なのはあの人で被害者の自分はOKだ」という理屈を用いる場合もあります。

他者を巻き込んでアピールすることも多く見受けられます。賞賛を求めたり、謝罪させたり、劣る点をあげつらったり、言い負かせたり、暴力で服従させたりと、その行動は多岐に渡ります。共通するのは、承認欲求に曝された他者が受けとるメッセージです。それは「おまえは駄目な奴だ」というものか、「君は仲間だ、俺たちに比べてあいつらは駄目だよね」というものです。どちらも人間はこうあるべきだ、そうでないのは失格だと思わせるものです。

自分はOKだと信じ込むための理屈付けはたくさんあり、実際は個人でこのような面倒なプロセスを経ることなく、既に社会に流通している思考パターンから自分に適用できるものをコピー&ペーストします。信じたいと意識に上ることは都合が悪いため、承認欲求のプロセスは無意識で展開するからです。本人が気付くのはその結果として「ほら、自分はイケてるだろ?」と他者にアピールする段階であることが多く、そのために承認欲求はしばしば本人には自尊心と誤解され、他者からは自己顕示欲と見なされます。

人間の特定の行動の評価ではなく存在そのものに優劣と合否を持ち込むことから、承認欲求は他人にダメ出しをすることと表裏一体です。自分はだめな人間かもしれないという不安が承認欲求を引き起こし、承認欲求が他者におまえはだめな奴だと呪いをかけます。呪いは他者のみならず本人にもふりかかります。常に人を判断する人間は、他者は自分のことを判断しているに違いないと思い込み自意識過剰となり、否定されては大変だという強迫観念で自分自身を縛ります。こうしていつの間にか世の中に呪縛が増殖し、生き辛い社会になります。