承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

共同体の乗っ取り その1

現在大きな話題となっている森友学園や加計学園の問題の核心は、行政が特定の人に対しては特別な配慮をすることにあります。
過去に注目を浴びたケースと大きく異なるのは、国家公務員が個人的に欲に眩んで便宜を図るのではなく、一般国民の知らない特権集団が形成されていた疑いがある点です。

確定申告の準備に追われながら、自分は多額の税金を納める義務がある一方で、国有地をただ同然で手に入れる人々が存在する事実について、苦々しく感じた人も少なくないことでしょう。

共同体が中心部と周縁部に分断され異なるルールが適用されることは、割と頻繁に生じる現象です。
これは国に限った話ではありません。
例えば町内会の予算で会長とその取り巻きだけで飲み食いしているとか、公募のはずが実は予め入選者が内定していたとか、しばしば耳にする話です。

多くの人は孤立を恐れ、どこかに所属している方が安心だと考えます。しかし都合が良い時のみ利用され普段は蚊帳の外に置かれるのであれば、共同体に所属することのメリットは得られません。

そのような立場に置かれれば、共同体から離れる人がいる一方で、分断されている事実を否定し自分の所属する共同体は良いものだと信じようとする人もいます。
また中心部に取り入ることで自分もおいしい汁を吸おうという人、どうしようもないとその立場に甘んじる人、一部の人々に乗っ取られた共同体を自分たちの手に取り戻そうとする人も存在します。

”我々は単に権力を政権から政権へ、党から党へ移譲するのではない。我々は権力をワシントンD.C.からあなた方、アメリカ国民へと返すのだ。
あまりにも長い間、我々の国家の首都にいる少数集団が政府の恩恵を受ける一方で、国民はその費用を負担してきた。
ワシントンは繫栄した。しかし国民はその富の分配にあずかることはなかった。”

これはトランプ大統領の就任演説の中の言葉です。(注1)
トランプ大統領登場を歓迎したアメリカ国民の多くは同様な認識があったと考えられます。
他方「私の大統領ではない」というプラカードを掲げ反対運動を続ける人々は、選挙で共同体の中枢を悪い集団に乗っ取られたと認識していると考えられます。

冒頭に述べた学園土地取得問題を通して、日本会議という保守団体が注目を集めつつあります。彼らの中には「左翼や外国人勢力に乗っ取られた日本を取り戻すのだ」という認識を持つ者も少なくありません。
しかし今回の問題を通して日本会議が日本の中枢を乗っ取っていたと認識する人も存在するでしょう。(注2)

乗っ取り犯はどちらかという認識の違いをどのように乗り越えることができるでしょうか。言い換えれば、共同体の正常な状態と乗っ取られ分断している異常な状態をどう見分ければよいのでしょうか。

次回に続きます。

(注1)こちらの就任演説日本語訳から一部引用させていただきました。
toyokeizai.net


(注2)
国会議員の4割、閣僚ポストの8割が日本会議のメンバーだという2015年の記事がありました。
gendai.ismedia.jp

安心と諦め その2

前回世界と繋がっていると感じることは安心と諦めをもたらすと書きました。
安心と諦めという組み合わせから、停滞をイメージする人もいることでしょう。不安と希望があるからこそ前進するのだと考える人は少なくありません。

蹴落とされないように必死で努力することが個人の成長に繋がり、ひいては社会に活力をもたらすのだという考えが広まっています。
しかしその考え方には見落とされている点があります。それは不安と希望が併存する帯域は決して広くないということです。

希望は絶望に転化しがちです。
希望が絶望に転化する時、しばしば不安を感じないように締め出すようになります。
あるいは偽の希望を作り出すことで、安心しようとします。
いずれも現実認識を歪めることであり、状況を認識してそれに対応することは困難になります。
問題を直視することを避ければ停滞した状態を作り出します。

不安を締め出すことなく諦めるケースもあります。
安心があるからこそ諦めもつくのであり、本来安心は諦めに先行するものです。
しかし「安心したければ諦めろ」と諦めを安心の必要条件として提示されることが少なくありません。
それは「共同体に残りたければ我慢しろ、文句を言うならばお前の存在を認めない」という脅しです。

受容されるために我慢する時には、自分がOKか否かを判定する誰かを想定することになります。
それは承認欲求を高め、ひいては現実認識を歪めることになります。

森羅万象の大きな共同体を感知すれば安心と諦めがあると前回述べました。その中に多数存在する小さな共同体でも同様に自分はその一部だという安心感を持つことができるかは、その共同体のあり方次第です。

安心があれば何か不都合があると感じれば、解決に向かって動くことができます。たとえその行動が実を結ばなくても受け入れることができます。
他方安心感がなければ、これを言えば関係が壊れてしまうかもしれないと遠慮することになりがちです。

誰もが遠慮する状況で問題を口にする人は、同調圧力を感じるあまりに、表面化させるからには絶対自分の意見を通さねばならないと身構えるようになります。
勝負に出るからには勝たなければ村八分のような目に遭うと感じるからです。

共同体のメンバーの意見が時として食い違うことは正常な状態です。常にすべての意見が一致するとすれば、強力なマインドコントロールが行われている可能性があります。
安心が得られない共同体であれば、長い停滞の間に内部の不満圧力が高まり、機を見て激しい権力闘争が発生するか、強い抑圧により停滞の果てに衰弱することになります。

安心とそれに続く諦めがあれば、集団の統治手段が民主制にせよ専制にせよ、安定した状態で緩やかに変化し続けることが可能になります。(注)

(注)民主制であっても数の力で押し切ってマイノリティが無視されるのであれば、無視されるメンバーの安心は得られません。
他方専制であっても、自分のことも十分配慮されているとメンバーが感じれば安心を得ることは可能です。