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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

安心と諦め その2

前回世界と繋がっていると感じることは安心と諦めをもたらすと書きました。
安心と諦めという組み合わせから、停滞をイメージする人もいることでしょう。不安と希望があるからこそ前進するのだと考える人は少なくありません。

蹴落とされないように必死で努力することが個人の成長に繋がり、ひいては社会に活力をもたらすのだという考えが広まっています。
しかしその考え方には見落とされている点があります。それは不安と希望が併存する帯域は決して広くないということです。

希望は絶望に転化しがちです。
希望が絶望に転化する時、しばしば不安を感じないように締め出すようになります。
あるいは偽の希望を作り出すことで、安心しようとします。
いずれも現実認識を歪めることであり、状況を認識してそれに対応することは困難になります。
問題を直視することを避ければ停滞した状態を作り出します。

不安を締め出すことなく諦めるケースもあります。
安心があるからこそ諦めもつくのであり、本来安心は諦めに先行するものです。
しかし「安心したければ諦めろ」と諦めを安心の必要条件として提示されることが少なくありません。
それは「共同体に残りたければ我慢しろ、文句を言うならばお前の存在を認めない」という脅しです。

受容されるために我慢する時には、自分がOKか否かを判定する誰かを想定することになります。
それは承認欲求を高め、ひいては現実認識を歪めることになります。

森羅万象の大きな共同体を感知すれば安心と諦めがあると前回述べました。その中に多数存在する小さな共同体でも同様に自分はその一部だという安心感を持つことができるかは、その共同体のあり方次第です。

安心があれば何か不都合があると感じれば、解決に向かって動くことができます。たとえその行動が実を結ばなくても受け入れることができます。
他方安心感がなければ、これを言えば関係が壊れてしまうかもしれないと遠慮することになりがちです。

誰もが遠慮する状況で問題を口にする人は、同調圧力を感じるあまりに、表面化させるからには絶対自分の意見を通さねばならないと身構えるようになります。
勝負に出るからには勝たなければ村八分のような目に遭うと感じるからです。

共同体のメンバーの意見が時として食い違うことは正常な状態です。常にすべての意見が一致するとすれば、強力なマインドコントロールが行われている可能性があります。
安心が得られない共同体であれば、長い停滞の間に内部の不満圧力が高まり、機を見て激しい権力闘争が発生するか、強い抑圧により停滞の果てに衰弱することになります。

安心とそれに続く諦めがあれば、集団の統治手段が民主制にせよ専制にせよ、安定した状態で緩やかに変化し続けることが可能になります。(注)

(注)民主制であっても数の力で押し切ってマイノリティが無視されるのであれば、無視されるメンバーの安心は得られません。
他方専制であっても、自分のことも十分配慮されているとメンバーが感じれば安心を得ることは可能です。

安心と諦め

人は否応なしに世界と繋がっていると前回述べました。
動物や自然など人間以外の森羅万象にまで範囲を広げ、かつ現在のみならず過去や未来まで視野に入れれば、誰もが繋がりを実感することは可能です。

繋がりを縁と言い換えることもできます。
それぞれの縁は太くなったり細くなったり、点いたり消えたりと常に変化しつつも、私たちを結び付け合い、そこから外れて全く孤立する存在はありません。

世界と繋がっていると感じることは、私たちに安心感をもたらします。「すべては繋がっており自分もその一部だ」という安心です。
しかしその一方、諦めも生じます。「ここから逃れることはできない、自分もこの世界の一部だ」という諦めです。

反対に、繋がっていないという思いは私たちに不安をもたらします。「自分はこの世界に受け入れてもらえるか」という不安です。
しかしその一方、期待をもたらすこともあります。「ここから抜けることができる、自分は特別だ」という期待です。

繋がっていないという思いから生じる不安は、しばしば承認欲求を惹起します。
このブログの承認欲求の定義は、自分はOKだと信じたいことです。信じるために都合のよい断片ばかりをかき集め、自分は優位な存在であり特別であると思い込もうとすることがあります。そうなると劣った存在である他者はひどい目に遇っても仕方がないという考えに至りがちです。

もっとも卵とニワトリのどちらが先かという話と同様で、承認欲求の強さゆえに繋がっていないという認識が生じるとも言えます。
承認欲求が強くなるに従い、OKであると信じるための自己イメージの形成そのものが目的となり、世界はそのイメージを形成するためのネタとしての意味しか持たなくなることは以前述べました。
繋がりを自分に賛同したり助けてくれる人との関係に限定して捉えていれば、大部分の縁は意味のないものとして無視されるようになります。

glicine394.hatenablog.com

近年アドラー心理学が注目されていますが、アドラーの言う共同体感覚とは、自分は繋がりあう世界の一員であるという実感です。
共同体感覚という言葉で指す共同体の範囲はアドラー派の中でばらつきがあり、動物や無生物まで含めて考えるものから、過去現在未来のすべての人類と考えるものまであります。(注)
いずれにせよ家族やムラ、国といった共同体を指すのではない点に注意が必要です。

縁で結ばれているこの世界からは、生きている限りは逃れることはできません。しかしそれぞれの縁は点滅するものです。距離が近づいたり遠ざかったり、関係が途切れることもあります。
個人間の関係のみならず、家族、ムラ、国といった共同体からも距離を置くことは可能です。意に反して切り捨てられることもあります。

繋がり合っている大きな共同体を意識するか、多数存在する小さな共同体のみを意識するかによって、考え方や行動に大きな違いが生じます。


(注)これは明らかな見解の相違というよりも、心理療法としては人間以外まで広げる必要性がなかったことや、森羅万象まで広げてしまっては宗教じみてしまうという懸念があったのではないかと想像します。