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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

安心と諦め

他者と向き合う

人は否応なしに世界と繋がっていると前回述べました。
動物や自然など人間以外の森羅万象にまで範囲を広げ、かつ現在のみならず過去や未来まで視野に入れれば、誰もが繋がりを実感することは可能です。

繋がりを縁と言い換えることもできます。
それぞれの縁は太くなったり細くなったり、点いたり消えたりと常に変化しつつも、私たちを結び付け合い、そこから外れて全く孤立する存在はありません。

世界と繋がっていると感じることは、私たちに安心感をもたらします。「すべては繋がっており自分もその一部だ」という安心です。
しかしその一方、諦めも生じます。「ここから逃れることはできない、自分もこの世界の一部だ」という諦めです。

反対に、繋がっていないという思いは私たちに不安をもたらします。「自分はこの世界に受け入れてもらえるか」という不安です。
しかしその一方、期待をもたらすこともあります。「ここから抜けることができる、自分は特別だ」という期待です。

繋がっていないという思いから生じる不安は、しばしば承認欲求を惹起します。
このブログの承認欲求の定義は、自分はOKだと信じたいことです。信じるために都合のよい断片ばかりをかき集め、自分は優位な存在であり特別であると思い込もうとすることがあります。そうなると劣った存在である他者はひどい目に遇っても仕方がないという考えに至りがちです。

もっとも卵とニワトリのどちらが先かという話と同様で、承認欲求の強さゆえに繋がっていないという認識が生じるとも言えます。
承認欲求が強くなるに従い、OKであると信じるための自己イメージの形成そのものが目的となり、世界はそのイメージを形成するためのネタとしての意味しか持たなくなることは以前述べました。
繋がりを自分に賛同したり助けてくれる人との関係に限定して捉えていれば、大部分の縁は意味のないものとして無視されるようになります。

glicine394.hatenablog.com

近年アドラー心理学が注目されていますが、アドラーの言う共同体感覚とは、自分は繋がりあう世界の一員であるという実感です。
共同体感覚という言葉で指す共同体の範囲はアドラー派の中でばらつきがあり、動物や無生物まで含めて考えるものから、過去現在未来のすべての人類と考えるものまであります。(注)
いずれにせよ家族やムラ、国といった共同体を指すのではない点に注意が必要です。

縁で結ばれているこの世界からは、生きている限りは逃れることはできません。しかしそれぞれの縁は点滅するものです。距離が近づいたり遠ざかったり、関係が途切れることもあります。
個人間の関係のみならず、家族、ムラ、国といった共同体からも距離を置くことは可能です。意に反して切り捨てられることもあります。

繋がり合っている大きな共同体を意識するか、多数存在する小さな共同体のみを意識するかによって、考え方や行動に大きな違いが生じます。


(注)これは明らかな見解の相違というよりも、心理療法としては人間以外まで広げる必要性がなかったことや、森羅万象まで広げてしまっては宗教じみてしまうという懸念があったのではないかと想像します。

つながるということ

他者と向き合う

前回ウロロボスの蛇のイラストは尾を食べているとして話を進めました。これに違和感を感じた方もいるでしょう。

本来のウロロボスは尾を咥えているものです。始めと終わりが繋がり円環を形作ることから、終わることなき循環と、完結しており欠けるものがない状態を意味するシンボルだと考えられています。蛇が一匹ではなく二匹のバージョンでは陰陽的な意味が付加され、太極図と限りなく近くなります。

従って頭が尾を食べる状態は、本来の意味とは全く逆です。本来繋がっているものを分離していると誤解して攻撃することにより、自らを弱体化させて終わりを迎えます。

分離の誤解が生じるのは、繋がっているという状態とは親交があるとか同じ集団に属していることであると理解しているためです。

どこかに所属しなければ自分は孤立すると考える人は少なくありません。
加えて、人は孤立すべきではない、孤立すれば悪いことが起こるという思い込みがあれば、誰彼構わず親しくなろうとしたり、集団に同調しようと努力することになります。またひとりでポツンとしていることを気付かれるのは恥だと感じます。

しかし、人はもともと孤立した状態であり、繋がるためには何らかの行動が必要なのでしょうか。繋がるとは他者と会話することや同じ集団に所属することを意味するのでしょうか。

自分は今何を感じているのかを観察すれば、どこまでが自分でどこからが他者の影響であるかを区別することは、困難であることに気付きます。自分の中には他者の痕跡が含まれています。

たとえ無人島に一人で渡って暮らしたとしても、ふと幼い頃の親との会話を思い出したり、過去に流行した歌を口づさんだり、今頃あの人はどうしているだろうと思いを馳せることになるでしょう。

更に、他者とは人間のみを意味するものではありません。雲が流れ去り陽が差せば気分は変わります。足元に咲いている花を見て、張り詰めていた気持ちがふと緩むこともあります。

「人は誰しも一人でこの世に生まれ、一人で死んで行く」という台詞をよく耳にしますが、他者なしに生まれることはありません。そして死ぬときにはおそらく誰かのことを想うでしょう。

私たちは、常に他者から影響を受け続けています。逆に自分が他者に影響を与えることもあるでしょう。
すべてを裁ち切って孤立することは不可能です。

自分は世界と否応なしに繋がっていると気付けば、ともかく誰かと繋がりたいという気持ちからは一歩前進します。
良い影響を与えてくれるものに近づき、悪い影響を与えるものは遠ざけることが重要だと感じるでしょう。

ところが何が良くて何が悪い影響かを見分けることは容易ではありません。

次回に続きます。

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