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承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

生存競争と甘え その3

序列

個人の運の善し悪しを無視して競争や努力を強調する人は、自分は向かうべきゴールを知っていると軽信しているのかもしれないと前回述べました。
「生存競争なのだから甘えるな」という見解を持つ人の多くは、とりあえず金があれば生き残れる確率が高いと考えます。

そう考える人が指導者的な立場にあれば、しばしば「甘やかせると本人の為に良くない」「若い時に苦労した方が良い」などの言い回しで、あたかも相手のことを考えているかのようなポーズをとります。
それは甘やかせること自体が悪であると主張しているかのように見えます。しかし実際は自分の身内にはひたすら甘いことは珍しくありません。(注)

生真面目な人ほど甘えは悪だと額面通りに受け取り、「自分はまだまだ辛抱が足りないのかもしれない」「この程度で助けを求めることは甘えているのかもしれない」と考えがちです。
その結果、過労や鬱により労働が不可能な状態まで追い込まれる人も少なくありません。
また、ギリギリの状態で努力する人が多ければ多いほど、そうすることが当然であるかのような空気が広がり、甘えは悪であるという考えが社会で強化されます。

そうなると子供の貧困のケースでも、必死の努力をしていない親の方に注目が集まり、子供の救済よりも親の非難にエネルギーが注がれます。その結果子供の格差は更に広がり、子供本人の努力では回復不可能なものとなります。
競争という言葉を使いながらも、実際には勝負が最初から決まっていて競争の余地がない階級社会に徐々に移行する可能性も否定できません。

しかしもう一度立ち返って考えてみましょう。人は本当に金があれば生き残れる確率は上がるのでしょうか。
そのヒントはウロロボスの蛇にあります。
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蛇が人間社会を表すと考えれば、頭に近い部分であるほど生き残る確率が増えます。つまり金を蓄えて序列の上へ位置した方が安全であると考えることができます。

マネーは便利なものであり、個人の役に立ちます。これは以前考察しました。
glicine394.hatenablog.com
しかし金を蓄えることを唯一の価値として他を切り捨ててしまうと、自分の体も見境なく喰い散らかす蛇の頭部のような状態となり、やがては自死に至る可能性があります。

「今だけ、金だけ、自分だけ」の強欲資本主義社会を仕方がないものだと肯定して、その中で喰われないようにうまく立ち回ろうとすれば、「貧乏人が犠牲になるのは自己責任」と突き放すことになるでしょう。
それは尻尾を自分とは無関係なものだと信じようとすることです。

頭から尻尾まで繋がっていることに気付けば、どうしてこんなことになってしまったのかとシステムエラーに目を向けることになります。
これば言い換えれば、繋がっていることから目をそむけるところに問題の根があるということです。

承認欲求が膜を張って見たくないものを遮断することや、箱の中の箱と振りわけることで壁を作ることは過去に考察した通りです。
マネーを本来の役割に戻すには、承認欲求を深く知ることが役に立ちます。
glicine394.hatenablog.com
glicine394.hatenablog.com
(注)甘えを肯定的に捉えるか否定的に捉えるかは、自分がその対象に甘えられることを望むか否かに左右されます。そこには対象への好意や自分に余裕があるかといった要素が関係します。
例えば道で見知らぬ猫が足元に擦り寄って甘えて来た時に、猫好きの人は嬉しいと感じ、猫が苦手な人は嫌だと感じます。たとえ大の猫好きでも、きものを着ていれば嫌だと感じるでしょう。

生存競争と甘え その2

序列

前回からの続きです。
ダーウィンの進化論を、競争に勝ち抜いた者が生き残り子孫を残すことで進化していくことだと理解し、人間も同様だ甘やかすなと結論付ける人は少なくありません。

進化論は(1)個体差が存在すること、(2)環境に適さなかった個体は淘汰される一方で、適した個体は生き残り子孫を残すこと、(3)その結果その遺伝子が次世代に継承されることという自然選択のプロセスによって種が変化するとして、神が生物を完成した形で創造したという従来の説を否定しました。

(1)は個体間の遺伝的性質の違いを指します。例えば鳥が細くて高いくちばしを持つか、太くて低いくちばしを持つかは、生まれながらのものです。「太い方が固い殻を破りやすいから鍛えよう」と個体が努力によって後天的に獲得したのではありません。

次に(2)の環境への適応は、環境の変化が予測不可能であることに留意する必要があります。例えば干ばつの年と降雨量が多い年では、生存に適した個体は異なります。
従って、到達すべき形がはじめから設定されているのではなく、どれが適者かは後付けで判定することになります。

大きな視点からすれば、環境の変化に合わせて生命が適応していく完璧なシステムが自然に備わっていると捉えることができます。しかし一個体の立場からすれば、生き残れるかどうかは運次第ということになります。

以上から進化論の考え方は、皆が一斉にゴールの方向を目指して競争し努力を怠った人間から落伍していくといった考え方とは、正反対のものです。

また進化論では(3)から子孫をいかに多く残すかが進化の鍵となります。
現代において人間が生存競争に勝ち抜く為に設定する目標は高学歴や高収入ですが、低学歴で収入が低い人々である方が子供の数が多い傾向があります。この点でも正反対と言えるでしょう。

それでは人間も個体差と環境によって自然選択がなされているのでしょうか。つまり個人が生き残るのは運次第なのでしょうか。
それとも人間は他の生物とは一線を画する存在なのでしょうか。

(1)人間にも個体差があります。この点は他の生物と同じです。

(2)しかしこの個体差は環境の適応差には直接結びつくわけではありません。人間は個体差を技術によりカバーすることが可能であるためです。
例えば背が低くても脚立で木の実を採ることができます。極端な寒がりでも衣服や暖房のお陰で寒い地方に住むことが可能です。

(3)次世代には遺伝子に加えて、生きるために必要な技術が継承されます。技術は血縁を越えて他者にも広く継承されます。

このように人間の場合は、種の進化よりも技術の進化の方が顕著であるように見えます。
しかし人間が環境をコントロールすることで運命のいたずらから自由になれると考えるのは早計です。疾病、地震や津波などの自然災害、事故など運の善し悪しで生死が決まることは少なくありません。

むしろコントロールを徹底すれば種の存続が脆弱化する可能性すらあります。
例えば将来出生前診断と遺伝子操作で、その時代の人々が健全だと考える個体だけが産まれるようになれば、人間の個体差は減少するでしょう。
そうなると急激な環境の変化が生じた時に、適応できる人間が皆無になるかもしれません。

「何事も努力次第だ」「いや、運任せだ」と極端な二者択一ではなく、その兼ね合いが重要です。
個人の運の善し悪しを無視して競争や努力を強調する人は、自分は向かうべきゴールを知っていると軽信しているのかもしれません。


(注)競争社会の正当化や優生思想と進化論の関係については、こちらの解説が参考になります。
http://meme.biology.tohoku.ac.jp/INTROEVOL/Page27.html

はじめての進化論 (講談社現代新書)