承認欲求の考察

承認欲求をキーワードに、人間心理や社会を考察します。

コミュニタリアニズムとリベラリズム その1

個人主義のせいで人々は孤独になったのだと考え、家や村落などの伝統的な共同体を懐かしむ人は少なくありません。
村に属せば自動的に仲間の輪に入れるのでしょうか。

たとえ村に生まれても、親が移住者であるが故によそ者扱いされることがあります。
代々村に暮らす一家に生まれても、自分は合わないと感じ、一日でも早く離れたいと考える人が存在します。

他方でもしも有名になれば、村から出て行っても仲間扱いされます。
村に住んだことすらなくても、親が村の出身というだけで一員として認められる可能性もあります。

このように対外的な所属と、心理的共同体の範囲は一致するものではありません。
伝統的な共同体を重視する社会では、このギャップがさまざまな問題を作り出します。

問題の第一は、心理的共同体の範囲からはみ出してしまった人々も対外的にはその共同体に属していると見做されることです。その結果そのような人々の存在は共同体の外からは見えにくくなり、精神的な孤立を招くことになります。

第二は、仲間と認めてもらいたければ共同体に貢献すべきと、心理的所属のために条件をつけられる、あるいはそう受け止めることがしばしば生じることです。

第三は、貢献が所属の条件であると感じることの裏返しとして、貢献しない人々、足手まといになる人々は排除してもよいと感じるようになることです。

第四は、いつか排除されるかもしれないと感じることにより、共同体が安心できる場ではなくなることです。

第五は、内部では排除された者も対外的にはその共同体に所属していると見做されるために、共同体の体面を保つための管理や強制が行われることです。

これらの問題は共同体としての対外的な所属と、心理的共同体の範囲が一致しないことに原因があります。
共同体を重視する社会ではしばしばこのギャップに目を背け、共同体の強い絆を強調します。

そのために排除を愛のムチであると信じ込もうとすることがあります。
例えば村八分にしているのはその一家の非を悟らせるための教育的処置だとか、親は子供を愛しているのだから体罰にも必ず理由があるはずだという考えは、この現れです。

あるいは目を背けることなくギャップを解消しようと、「仲間なのだから仲良くしましょう」と道徳を説くことになります。
国を愛しましょう、家族を大切にしましょうと、対外的な所属の枠はそのままで、親密さを広げようとします。

仲良くすべきという考えは、共同体の中で協力して解決させようと、あえて外からの介入を減らすことにも繋がります。
協力して課題に向かう過程で親しみが生じるはずだという、「雨降って地固まる作戦」です。
これは例えば貧困や介護の問題は家族は助け合って解決すべきであり、国は安易に手を出さない方が良いという考え方に繋がります。

ギャップを解消するには、これらとは全く逆のアプローチも存在します。
対外的な所属という枠を緩め、親密さを強制しないことです。

例えば家族と一緒にいたいならばそれで良し、離れたいならばそれでも良しというように、共同体ではなく個人をベースに考えます。

そのためには共同体の外に受け皿が必要となります。
その受け皿は各々の共同体から排除されても生きていけるようなセーフティネットであることが要請されます。

コミュニタリアニズムとリベラリズムの対立は、人々の親密さをどう扱うかという違いであると考えることができます。

続きます。

共同体 束縛と自由のダイナミズム

日本を含め国家の多くは、国をひとつの共同体と見立てて主権者は国民であるとする国民国家モデルを採用しています。
その対極にあるのは、国は誰かの所有物であり、所有者すなわち主権者が支配下にあるものを好きなように統治できるという専制国家モデルです。

人を支配しようとする者は徒党を組むことを好みます。やがてボスを中心とするグループが結成され、他のグループと勢力争いをしつつ成長します。
支配の地盤が確立し、大規模に組織化された集団がマフィアです。(注1)

マフィアは「ここからここまでは自分の縄張りだ」と所有の感覚を持ち、その範囲内の住民を支配します。縄張り内部の争いを仲裁したり、外敵から保護する一方で、みかじめ料を徴収したり、気に入らない人間を制裁します。
マフィアと言う言葉は非合法という響きを含むので、豪族と言い換えても良いでしょう。
更に権威を加えて支配の正当性を強調すれば、王族と呼ぶことになります。

専制は支配ー服従の関係であるため、その統治の良し悪しはトップに立つ者とその取り巻き次第です。
時に莫大な貢ぎ物(税)を要求したり、無理を押し付ける支配者に対して、商工業者を中心に都市の住民が集団で交渉し支配者に干渉されない領域を少しずつ獲得していったのが中世の自治都市です。

共同体とは英語でcommunityであり、自治都市はフランス語でcommuneです。どちらもラテン語で共通したものを意味するcommunisを語源とした言葉です。

国をひとつの共同体と見立てて主権者は国民であるとする国民国家モデルは、自治都市の発展した形だと言えます。領域を拡大したのみならず、共同体の構成員が身分を越えてすべての住民に拡大されました。何よりも大きな変化は、主権が時の権力者から国民に完全に移行したことです。(注2)

しかしこのモデルの下でも、他者を支配して思い通りにしたいという欲望は途絶えることはありません。
以前このブログで次のように述べました。

このような他者をコントロールしたいという力と、解放されたいという力のせめぎ合いの中で、後者が自由になるための手段として取り入れるのが新しいシステムです。(注) そのシステムは一旦は支配のリセットをもたらします。しかしやがて時間の経過と共にそのシステムもコントロールの手段として組み込まれてしまいます。

BIその2 束縛と自由のダイナミズム - 承認欲求の考察

国民主権の国民国家モデルには、国家権力が一部の者のために恣意的に用いられることを防ぐしくみが備わっています。
日本国憲法も例外ではありません。

例えば個人の尊厳や法の下の平等は、国家権力が国民を価値のある者とない者に振り分けることを防止します。

内心の自由、信教の自由などの自由権は、国家権力が個人の領域に干渉することを抑制します。
とりわけ表現の自由は、自治のために国民が事実を認識しようとすること、考えを表明することを妨害されないようにするために不可欠です。

罪刑法定主義は、いかなる行為が犯罪かをあらかじめ法令で規定しなければならないとすることにより、時の権力者が目障りな者を恣意的に処罰することを防止するものです。(注3)

三権分立や立憲主義は、国家権力が濫用されやすいものであることを前提にして、それを未然に防ぐための統治システムです。

これらのしくみが骨抜きにされる時には、国家というシステムは実質的に共同体モデルから逸脱します。


(注1)ここではマフィアという言葉を大規模で組織化されたギャングという意味で使用しています。

(注2)大日本帝国憲法の下では、主権は天皇にあり、天皇・皇公族以外の国民は臣民として天皇の支配の対象でした。
もっとも先進国の仲間入りをするためにも、民衆の不満を収めるためにも、明らさまな専制ではなく啓蒙君主型の国民国家モデルが採用されました。

(注3)制定間近と思われる共謀罪は、罪刑法定主義を実質的に骨抜きする危険性があります。
何が犯罪の準備行為に該当するのか明確ではなく、捜査機関の判断任せとなることから、いくらでも恣意的な逮捕が可能になるためです。
そうなればマスコミのみならず一般国民から官僚、議員、裁判官に至るまで、時の権力者に不都合な言動は自制されるようになり、表面は民主制でも事実上は独裁制と変わりないものとなる恐れがあります。